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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は結構世に広く知られていながら、「本当のところはどうなのよ?」ってな色が強い、激戦「姉川合戦」をお送り致します。

美貌の妹「お市の方」を嫁がせ、同盟関係となった尾張・織田、近江・浅井の両家。
しかし、「織田信長」は当初の約束を違え、浅井家の盟友であった朝倉家を無断で攻撃。
電撃作戦によって一気に本拠である一乗谷近くまで迫った織田勢ですが…。
「朝倉景恒」の守備する「金ヶ崎城」を無血開城させたあたりで、信長が仰天する報が届くのでした。

「浅井長政謀反」

信長は「浅井長政」を一人の武将として買っていたような節がありますから、その背信がどうしても信じられなかったようです。
届く謀反の報告も当初はにわかには信じず、混乱させるための偽情報だと疑っていたようなのです。

北近江を支配する彼の挙兵は、越前深くまで進出していた織田勢としては退路を断たれ、挟撃されてしまう恐れがありました。
まさにこの時の織田勢は袋の鼠であり、全滅の危機に陥っていたのです。
確実性が増す情報に急いで兵をまとめた「織田信長」はほうほうの態で京都まで逃げ帰るのでした。

さて、戦というのは攻めるより、引くほうがその何倍も困難とされています。
ここで殿軍(しんがり:部隊を逃がすため、踏みとどまって時間を稼ぐ部隊のこと)を引き受けたのが、美濃・斎藤氏攻めで功があったとされている、「木下藤吉郎秀吉」こと後の太閤「豊臣秀吉」なのでした。

並み居る重臣たちがこぞって難色を示したという、この難解な役目を成功させた秀吉の手際は「金ヶ崎の退き口」として世に知られております。
(※この時には知将として知られる「竹中半兵衛重治」も共に陣中にいたでしょうから、その活躍があったのかもしれません)
悪条件から無事脱出に成功したのは、殿軍となった秀吉勢の活躍、「松永久秀」が口説き落とした近江国高島郡朽木谷の領主「朽木元綱」の協力、さらには追撃すべき朝倉勢の鈍さなど、諸条件がうまく重なったためであるようでした。

朝倉義景
※おぼっちゃん「朝倉義景」です。

興味深いエピソードとしては、嫁いでいた「お市の方」が陣中見舞いと偽って、それとなく危機を知らせたのだ、という話があります。

戦国時代の女性は両家の仲を取り持つ外交官的な役割のほか、こうして実家に有利情報を流す密偵という面もあったのです。
こちらはやや出来すぎにも感じますが、面白い話ですよね。
なお、朝倉方の文献によると千三百ほどの首を取ったとされており、全軍生き延びたとはいえかなりの激戦であったことが分かっております。

このチャンスで信長を討ち漏らしたことは、結局両家の命取りに繋がるのです。
なお、朝倉勢はその後一族の「朝倉景鏡(あさくら・かげあきら)」を総大将に二万の兵を近江へ送っていますが、軍勢を召集する織田勢に恐れを感じたのか、他の思惑あってか、急に越前へと引き上げております。

さて、窮地を脱した「織田信長」は激しい怒りに震えておりました。
早速兵を整えると共に浅井・朝倉方の切り崩しを謀っており、「堀秀村」「樋口直房」という国境付近の武将を寝返らせることに成功したのです。
カエル・にっこり
⇒ つづく。
  次回は「姉川に布陣する両軍勢」です。

[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 松永久秀 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [  ]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [ ]

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1/4 名将鎧兜 織田信長 1/4 名将鎧兜 織田信長
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※わがままな「織田信長」さまです。
 たぶんねー、頭の回転いい方ですから、他がトロくお馬鹿に見えるのでしょう。

2007.08.10 Fri l ネタ l コメント (0) トラックバック (0) l top
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本日は…ちょっと遅れましたが、夏休み特別企画をお送りいたします。

『 お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺) 』 
(※川野太郎若村麻由美

※元ネタは雪印事件で終わっちゃった「料理バンザイ!」の1コーナーですよ。
 司会は皆の憧れ「滝田栄」さん。

…はい。
こないだゴールデン・ウイーク特別企画でやったものの単なる焼きまわしです。
追加したりしてるので、まぁいいかなーって。
お休み中の旅行先は…もう決められていると思いますんで、ちょっと時間空いたら、こちらのどちらか寺院まで行かれてはいかがでしょうか?

下記にて地域ごとに紹介したお寺をまとめております。
お寺のリンクはあまり貼らないので、こちらを参考に貴方にぴったりな「さんぽ寺」を見つけてみてはいかがでしょーか。
(※単に並べただけでは不親切なので、コメントつけてみました)


京都
金閣寺_鹿苑寺.jpg

■ 京都 右京区のお寺 ■

広隆寺 (京都) 弥勒菩薩でお馴染み「霊宝殿」があります。
仁和寺 (京都) 別名「御室御所」という世界遺産なお寺。
二尊院 (京都) 釈迦・阿弥陀の二尊を祀る。
天龍寺 (京都) 世界文化遺産。法堂の雲龍図があります。
無料・公衆電話 (天龍寺)
西明寺 (京都) 三尾の名刹の一つ。
檀林寺 (京都) 皇后「橘嘉智子」さま創立。
愛宕念仏寺 (京都) 常に念仏を唱え続けた「念仏上人」千観さんのお寺。
千二百羅漢像 (京都・愛宕念仏寺)
法金剛院 (京都) 別名「蓮の寺」
妙心寺・退蔵院 (京都) 画聖「狩野元信」の庭園が見事。
水琴窟 (妙心寺退蔵院、正法寺) 宇宙へ発するシンフォニー。

■ 京都 西京区のお寺 ■

十輪寺 (京都) 伊勢物語の主人公とされる「在原業平」ゆかりの寺。
大雄院 (京都・妙心寺派) 別名「蚕の寺」
地蔵院(京都)  別名「竹の寺」
善峯寺(京都) JRのコマーシャルにも登場。
善峯寺 その2 (京都)
淨住寺 (京都) 日本三禅宗のひとつ「黄檗宗」の寺。
願徳寺 (京都) 「国宝 如意輪観世音菩薩半跏像(菩薩半跏像)」が素敵。
勝持寺 (京都) 別名「花の寺」

■ 京都 東山区のお寺 ■

養源院 (京都) 伏見城の床が天井という「血天井」のお寺。
大雲院 (京都) 山鉾を模した「祇園閣」が目印。
知恩院 (京都) 浄土宗総本山。
智積院 (京都) 真言宗智山派総本山。
天得院 (京都) 「方広寺」の鐘名を撰文した「文英清韓」長老のお寺。
霊雲院 (京都) 立派な「湘雪和尚」のお寺。
東福寺 (京都) 約十五メートルの釈迦如来像があったらしい。
高台寺 (京都) 秀吉の正妻「ねねさん」ゆかりの寺。
ねねさん 高台寺(京都)
三十三間堂 (京都) 本当は「蓮華王院」、柱間が三十三であるから「三十三間堂」
日本唯一の千体観音堂 (京都・三十三間堂)
六道珍皇寺 (京都) 冥土への入り口があります。
六波羅蜜寺 (京都) おどる「空也上人」ゆかりの寺。
十一面観世音菩薩像 (京都・六波羅蜜寺)
空也上人立像 (京都・六波羅蜜寺)
楊貴妃観音 (京都・泉涌寺)  世界三大美女の一人「楊貴妃」を模した観音像で有名。
 
■ 京都 左京区のお寺 ■

浄土院 (京都) 通称「大文字寺」
野仏庵 (京都) マニア「上田堪庵」さんの創立。
圓光寺 (京都・瑞巌山) 東照宮とか水琴窟とかある。
銀閣寺 (京都) 銀じゃねぇ、でおなじみ。
聖護院門跡 (京都) 本山修験宗総本山。
曼殊院門跡 (京都) JRのコマーシャルにも登場。
赤山禅院(京都) 泰山府君を勧請したお寺。
金戒光明寺 (京都) 浄土宗の大本山。会津藩と新撰組の屯所が置かれていた。
真正極楽寺 真如堂 (京都) 「藤原詮子」さんゆかりの寺。
うなずき阿弥陀  (真正極楽寺 京都)
詩仙堂・丈山寺 (京都) 「石川丈山」の隠居庵。
狸谷山不動院(京都) <前編> 大小の狸が不気味なほどに。
狸谷山不動院(京都) <後編>

■ 京都 北区のお寺 ■

大仙院 (京都) 大徳寺北派の本庵。由緒ある名刹。
龍源院 (京都) 大徳寺南派の本庵。日本最小の石庭「東滴壷」があります。
光悦寺 (京都) 「本阿弥光悦」の寺。
金閣寺 (京都) 外人もビックリな黄金寺。
正伝寺 (京都) 伏見城の床が天井という「血天井」のお寺2。
常照寺 (京都) 名姑「吉野太夫」ゆかりのお寺。
天下の名姑「吉野太夫」(京都・常照寺)
等持院の表門(京都) 歴代将軍がズラリ。
将軍 足利義輝 等持院(京都)
等持院 (京都)
閉眠庭 瑞峯院(京都) キリシタン大名「大友宗麟」の縁起を含めた寺。

■ 京都 中京区のお寺 ■

誓願寺 (京都) 新京極の真っ只中にあるお寺。
革堂[行願寺] (京都) 革聖・行円さまのお寺。
緊急企画 本能寺 (京都) 織田信長最後の地。ヒが去るよう考えられてます。
本能寺跡地 (京都)

■ 京都 伏見区のお寺 ■

嘉祥寺 (京都) 別名「深草聖天」

■ 京都 山科区のお寺 ■

華頂山 元慶寺 (京都・山科) 三十六歌仙の一人、僧正「遍昭」のお寺。

■ 京都 上京区のお寺 ■

広徳山慈受院門跡・薄雲御所 (京都) 皇室ゆかりのお宝が数多く現存。


京都以外
増上寺と東京タワー

■ 奈良のお寺 ■

唐招提寺 (奈良) 「鑑真和上」のお寺。絶塵の名刹。
秋篠寺 (奈良) 「小栗栖常暁」のお寺。
秋篠寺 その2 (奈良)
興福寺 (奈良) 「国宝・阿修羅像」が有名。
薬師寺 (奈良) 世界遺産。南都七大寺のひとつ。
飛鳥時代の国宝 薬師三尊像 (奈良・薬師寺)

■ 滋賀のお寺 ■

西教寺 (滋賀) 天台宗真盛宗総本山。明智光秀ゆかりのお寺。
真盛上人「身代わりの手白猿」 (滋賀・西教寺)
豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀) 長浜城付近。

■ 静岡・伊東のお寺 ■

松月院 (伊東) 七福神「弁天様」を祀る。
海光山 仏現寺 (伊東) 七福神「毘沙門天」を祀る。「天狗の詫証文」もあります。
東林寺 (伊東) 七福神「布袋」を祀る。「河津三郎」ゆかりの寺。
清水寺 (静岡・音羽山) 京都の清水寺に似てたらしい。
足柄聖天堂 (静岡県・小山町) 日本三体聖天尊のひとつ。

■ 神奈川のお寺 ■

川崎大師・平間寺 亀がいっぱいおりました。
大天狗像 大雄山最乗寺 (神奈川) でかい下駄が目印。
日向薬師(神奈川) 鼻から蜂が。
依京寺 (裾野・景ヶ島渓谷) 石がとろけた「景ヶ島渓谷」にひっそりと。
浄発願寺 (神奈川・伊勢原) 浄発願寺の跡地。やや不思議な雰囲気。
宝蓮寺 (神奈川県・秦野市)  歴史のあるお寺。秦氏ゆかり。
重文 木像聖観世音菩薩立像 (秦野・宝蓮寺)
浄智寺 (神奈川県・鎌倉) 鎌倉五山第四位。「北条師時」によって創建。
鎌倉大仏 (鎌倉市・高徳院) 鎌倉で唯一の国宝。
鎌倉大仏・胎内参拝 (鎌倉市・高徳院)
長安寺 (神奈川県・箱根) 石仏の羅漢さんが見所。
長安寺・五百羅漢像 (神奈川県・箱根)
早雲寺 (神奈川・箱根)  小田原北条家の菩提寺。

■ 東京のお寺 ■

清水堂 (上野)  手水のつかいかた。
大円寺 (東京)  全自動・御手洗所。
閻魔像 (新宿・太宗寺) 閻魔堂でボタンを押そう。
五智如来石像 (葛飾区・真勝院) 寅さん記念館の帰りにでも。
蛸薬師 成就院(東京・目黒) 薬師像を持ったタコに遭遇。
高幡不動尊 「金剛寺」 (東京・日野市) 「関東三大不動」の一つ。
重文 木造不動明王坐像 (東京・金剛寺)
幻の真慈悲寺 (東京都・日野市) その存在が幻とされている。

■ その他地域のお寺 ■

瑞鳳寺 (宮城県仙台市) 伊達家の菩提寺。
中禅寺 (栃木県・日光市) 松竹映画「愛染かつら」のロケ地。
立木観音 (栃木県日光市・中禅寺)


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※ちょっと趣向を変えて、お寺に泊まってみるのもいいかもしれません。
 心静かにすれば、暑さなんて吹き飛ぶ…はず。たぶん。

2007.08.08 Wed l お寺 l コメント (2) トラックバック (11) l top
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本日は結構世に広く知られていながら、「本当のところはどうなのよ?」ってな色が強い、激戦「姉川合戦」をお送り致します。

お市の方.jpg
※こちらが「お市の方」です。美人ですね。

美貌の妹「お市の方」を嫁がせ、同盟関係となった尾張・織田、近江・浅井の両家。
しかし、浅井古くからの盟友であった朝倉家を無断で攻撃。
電撃作戦によって、一気に本拠である一乗谷近くまで迫っていた織田勢。
「朝倉景恒」の守備する「金ヶ崎城」を無血開城させたあたりで、信長が仰天する報が届くのでした。

「浅井長政謀反」

近江(滋賀県)にて、六角氏の支配を打ち破った「浅井長政」は若く才能ある当主。
そんな彼に目をつけた(※むろん、上洛の際にに必ず通らなければいけない重要拠点であることも加味されているでしょう)「織田信長」は”戦国一”とも言われる美貌の妹「お市の方」を送り込むのでした。
(※永禄七年(1564)だから、六年前のことですね)
多くの子供にも恵まれた二人の夫婦仲は良かったらしく、信長としては信頼できる有能な当主・同盟軍だったのです。

ただし、この同盟には条件がありました。
浅井家と朝倉家は古くから代々続く友好関係にあり、「浅井長政」は盟約の際には朝倉家を無断で攻めないようにと求めていたのです。

これは、もともとは同じ斯波氏の代官であった、朝倉家・織田家の仲が険悪であったことが周囲にもよく知られていたためでもありました。
(※朝倉家は守護代の家柄ですが、織田家は守護家の家老に過ぎず、陪臣風情の織田家に頭を下げるのばプライドが許さないのですよ。当時の人は特に)
浅井氏にすれば、これは約束違反なのです。

一方の織田家としては、”将軍を奉じて上洛し、天下統一のために動いている”ので、同盟を結んだ当時とはもうだいぶ状況が変わっている。
だいたい、事前に連絡などすれば板ばさみになって困るだろう、という言い分なのでしょう。

どちらかの本に書かれていましたが、もしここで従順に織田家を選んでいたなら、東の徳川家のように織田家と共に発展したのかもしれません。
あるいは、やっぱり要求に応えられず、結局はどちらかで決別していたか…。

結局、旧交を守った浅井勢は朝倉方についたのでした。
若い「浅井長政」は織田を支持していたが、父「浅井久政」が譲らなかった。
あるいは、家臣団が譲らなかったという説があります。
「お市の方」があまりに美人なため、”その色香に迷ったと言われないため朝倉についた”、なんて週刊誌記事のようなのもありました。
…まぁ、色々な要因が重なっただろうことは確かであるようですね。

美人というのはいつの時代でも悲劇がつきまとってしまうものです。
ああ、美しさは罪なのね…。
カエル・泣き
⇒ つづく。
  次回は「袋の鼠の織田勢・金ヶ崎の退き口」です。

[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [   
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [   
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [  
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 船上の二人(戦国サスペンス劇場) [  ]
⇒ 山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 <前編> <後編>

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※さすがに”戦国一”なんて言われるだけあって、本もいっぱい出ています。
 でも、ひでるさんは「北条政子」さまのが好き。

2007.08.06 Mon l 歴史 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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本日は結構世に広く知られていながら、「本当のところはどうなのよ?」ってな色が強い、激戦「姉川合戦」をお送り致します。

美貌の妹「お市の方」を嫁がせ、同盟関係となった尾張・織田、近江・浅井の両家。
しかし、浅井家の盟友であった朝倉家を無断で攻撃したことによって両家は断交。
自分の非はさておき(笑)、怒りに震える「織田信長」くんは浅井攻めを決断するのでした…。

姉川古戦場_01

さて、この何気なく我々が使用している「姉川合戦」という呼び名。
これは、”それぞれが陣を張った場所を合戦名とする風習”からきているのだそうです。

なるほど、当時の両軍がお互い示し合わせて決めた訳でなし、それぞれ異なる呼び方・記述となっているのは、当然のことなのでしょう。
よく知られている「姉川合戦」という呼称については、記録がはっきりと残っている徳川方のものなのです。
当時の織田方では「野村合戦」という呼び方でした。
(※浅井勢も同様に「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼んでいたそうです)
徳川方のソレが今の時代まで採用されているのは、最終的な勝利者であるため。簡潔な記述だけの織田家資料とは違い、記録がしっかりとした徳川家の記録に頼っているためなのです。

…そんな訳で、こちらでは織田が苦戦して徳川が活躍する場面があるんですが、それをちょっと疑った方がいいのかもしれません。
そんな訳で、今回はうたぐりブログです。
あらかじめ。
ここが違う!みたいに指摘できるほどの資料・確実な根拠などはありませんので、ご了承下さい。
まぁ、雑談程度で気楽に見て頂ければー。

永禄十一年(1568)
美濃を手に入れた「織田信長」
そんな彼を頼ってきた流浪の将軍「足利義昭」はその力を借りて上洛、見事十五代将軍となったのでした。
しかし、その地位が傀儡(かいらい)に過ぎないことを知った彼は対抗できそうな諸大名らと密かに連絡を取り合うようになっていくのです。
その誘いに応じたのが、上洛のチャンスがありながらも優柔不断な性格でみすみすそれを逃し、信長に権利を簒奪されてしまっていた、越前の名門「朝倉義景」なのでした。
しかし、「織田信長」もさすがにその行動を察知していたのです…。

元亀元年(1570)四月
突然三万という大軍を率いた「織田信長」以下織田勢は京都を出陣。
幕府に叛いた若狭(福井県)「武藤氏」討伐との名目でしたが、若狭・越前の国境で逆方向である関峠から越前敦賀郡へ進入。
敦賀は妙顕寺に本陣を置いたのでした。(※これは武藤氏の討伐後かもしれません)
ここには徳川勢も加わっております。

そう、この出陣はもともと上洛に応じない、朝倉攻めを考えていたのです。
結果としてこの電撃作戦は見事に的中し、織田勢は勢い良く「手筒山城」・「敦賀城」を陥落させると木芽峠をも越え、一気に本拠である一乗谷近くまで迫っていたのでした。
…朝倉方に体制が整っていなかったことも当然なんですが、あまりに呆気ないですね。
後々の話なども考えると、当主「朝倉義景」以下、この頃の朝倉家は支配体勢自体がかなりゆるゆるになっていたのだと想像できます。
それが大内氏や土岐氏にも見られた、名門家にありがちな弱点なのでしょう。
ともかく、こうして平安時代から続くと言われる名族は滅亡の危機となるのでした。

「朝倉景恒」が守備する「金ヶ崎城」を勢いそのまま無血開城させた織田勢。
そこに、思いもしなかった報が届くのです!
カエル・驚き
⇒ つづく。
  次回は「美貌で知られるお市の方、迷う浅井長政」です。

[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
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※姉川合戦もある「戦国無双2」です。
 朝倉勢はだらしないですねー。
2007.08.02 Thu l 歴史 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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本日は滋賀は彦根の日本三大弁財天の一つ、「長寿院・弁才天堂」です。

こないだ「石田三成」さまの「佐和山城」について書きましたが、その間違う切っ掛けとなったのがここ。
大洞弁財天ご参拝の方はこちら
…とか看板に書いてあったので、「まぁせっかくだから見ていこう」ってな具合に行ったのが運のつきでした。
(※その際の受難話はコチラ⇒ 現地レポート編
いい加減、思いつきでふらふら行動するのは控えた方がいいかもしれませんね。
いい大人なんだから。
なお、佐和山城へはこのお寺の裏から行くこともできるんですが、明らかに遠回りとなるので一度引き返したほうがいいです。
いや、本当に。

大洞弁財天

そんなこんなで、大きな弁天像(※六尺だから約2メートルほど…って、合ってる??)を有する、滋賀の隠れオススメスポット「長寿院・弁財天堂」です。
こちらは彦根藩四代目の「井伊直興」が近江代々の領主の霊を弔い、また領内の安泰を祈願するために創立したお寺なのです。
そんな訳で江戸時代の建物なんですね。

なんと、領民から一文づつの奉加金(ほうがきん:社寺に奉加する金銭のことです)を集め、不足分を自ら、…って藩金なんですが、とにかく補って建立したのでした。
その参加人数は二五九千人(259,000?)という大人数で、近江だけでなく、武蔵・上野といった地域からも寄進されたようなのです。
どういう宣伝活動をしたのだか不明ですが、さっすが大老など要職を排出する家柄が音頭をとっただけのことはありますね。

メインである弁才天堂は元禄八年(1695)から九年もかけられたもので、本堂・石間・礼堂という寺院建築には珍しい権現造(ごんげんづくり)の形式となっているのでした。
権現造ってーのは、平安時代の「北野神社」が最も古く、主に神社での形式だそうです。
有名なところでは「東照宮」でして、どうやらそちらを真似たもののようです。
(※藩主「井伊直興」は日光の普請奉行だったの)
「彦根日光」との別名もその裏づけでしょう。

内外に彫刻をし、漆塗りや極彩色を施すなど、豊かな元禄時代の様式・手法が表れております。
六尺の弁天像を中央に、脇侍十五童子を配した様は「荘厳雄大さは例がなく」という感じだったそうです。
…ちょっと大げさかなー。
でも、巨大な弁財天像は格子扉の向こうでしたが圧巻でしたよ。ええ。

また、諸国霊社二百八十一箇所の土砂を収集して埋めていることから、”一度こちらへ参拝すれば、西国秩父阪東の巡礼をしたと同じ”という由来があるとされていたそうなのです。
うふふふ(笑)
カエル・(笑)

[関連記事]
⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ お寺と神社
⇒ 三猿について (日光東照宮) (庚申信仰)

[住所]
 長寿院・弁才天堂 滋賀県彦根市古沢町1139

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※そんな訳で弁天つながりのこちら。
 正統派チャンバラ劇はいかがでしょう?
2007.07.30 Mon l お寺 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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本日は先に亜種であります「兜跋毘沙門(とばつ・びしゃもん)」なんて紹介してメインをほったらかしにしていた、四天王の一人「毘沙門天(びしゃもんてん)」をお送りいたします。

前回はちょっとややこしめな由来とかのお話でしたが、今回は気楽に仏像について見分け方などを書きますので、あちこちお寺へ行った際に発見したら一人悦に入って下さい(笑)

仁和寺_多聞天.jpg

とりあえず、ややこしい書き方で紹介しますと、

武装憤怒の神王形の立像で二臂像が多い。
不空訳「金剛頂喩伽護摩儀斬(こんごうちょうゆがごまぎき)」では、「北方・毘沙門天は二鬼上に坐し、身に甲冑をつけ、左手の掌には宝塔を捧げ、右手には宝棒を執る、身は金色」と伝えられる。

…なんだか、分かったような、分からんような感じですよね。
これを、こざっぱり簡単に書きますと、
甲冑をつけた武将形。
怒りの表情である憤怒相で、邪鬼の上に立つ姿が一般的です。
片手・掌上に宝塔を乗せ、もう一方の手には武器を手にしております。
こんなんか。

ちなみに、宝塔を捧げない方もおりまして、その場合は空いた手を腰に当てております。
また、持物は宝棒以外にも三叉戟(さんさげき:三又の槍です)、鉾、宝剣などを持つ作例があるのでした。

本来は一面二臂なんですが、絵になりますと一面四臂、一面十臂なんて方もおります。
足下の二邪鬼にもちゃんと名前があり、「尼藍婆(にらんば)」「毘藍婆(びらんば)」と言うそうです。

四天王との四人セットほか、単独の場合、脇侍として妻の「吉祥天」と「ぜんにし童子」を配する三尊形式、「吉祥天」とラブラブカップル状態である二尊形式なんてのもあります。

特殊な異形像も豊富でして、二十臂四面八足で獅子に騎乗する「刀八毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」、二身の徳を一つにした「双身毘沙門天」…こちらは福徳の女神「吉祥天」を妻とする福神としての側面、鬼類の王で四天王中最強という軍神としての側面、双方を表現したものみたい。

奈良・法隆寺金堂の四天王像が最古の作例。
こちらは飛鳥時代のもので、直立不動のこけしみたいな珍しい像
こんなんでもちゃんと邪鬼を踏みつけているところがポイントです。

また、「源義経」でも有名な京都・鞍馬寺には左手を額にかざした、これまた珍しい秘仏があります。
こちらは三尊形式で、寺伝では眼下に平安京を見下ろした、王城守護にあたる姿とされているんだって。

ちなみに、「毘沙門天」は財宝がありすぎて、毎日三度焼き捨てるとされるという、ようわからん一面もあります。
焼くくらいならひでるにください。

真言は「おん べいしらまなや そわか」
こちらで、福徳・戦勝に効果ありです。
ただし、「上杉謙信」のように、ある程度徹底しないと駄目っぽいですが…やってみますか?
ヒヨコ・照れる

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KO・KE・SHI人形。 KO・KE・SHI人形。
斎藤 亜弓 (2005/05)
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※こけしの写真集だそうです。
 いやぁ、近頃はなんでもありますねー。
2007.07.26 Thu l 仏像 l コメント (0) トラックバック (1) l top
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…先に亜種であります「兜跋毘沙門(とばつ・びしゃもん)」なんて紹介してメインをほったらかしにしていた、四天王の一人「毘沙門天(びしゃもんてん)」をお送りいたします。

四天王中では群を抜いてダントツに作例が多く、各地にて単独でも信仰されている、人気の高い「毘沙門天」さま。
戦国時代では「軍神」として恐れられた「上杉謙信」もこの毘沙門天に心酔していた一人で、出陣前などで毘沙門堂に篭って瞑想していたとか伝えられています。
かっちょえーためか、強さを求める武士・武将たちにはえらい人気があったようなんですが…なぜに四天王でこの「毘沙門天」だけがピックアップされ、信仰されたんでしょう?

毘沙門天.jpg

古代インド神話では「クベーラ」として、暗黒界の悪霊の長でありました。
よくあるパターンですが、この方もともと悪神だったんですね。
それが「ヒンドゥー教」に取り込まれてから、財宝・福徳をつかさどる役目を与えられ、さらに夜叉を従えて、北方を守護する善神に転じました。

仏教に取り込まれた後は、須弥山(しゅみせん)の中腹、欲界第六天の四方を守護する護法神の一人とされました。
その四方とされる、四天下(してんげ:四大州)の守護神たち。
これが、東方・持国天、南方・増長天、西方・広目天…そして、北方に位置する「多聞天」こと「毘沙門天」なのです。

こうした「北方守護の任務」を継続しつつ、寅さんでも有名な「帝釈天」の配下として、他三名と共に四天王の一人にも抜擢されます。
(※ちなみに、帝釈天はもともと天界の最強神なの)
なお、密教では十二天の一人として再編。
ついでに、江戸時代から流行した七福神でも、メンバーの一人とされております。
さすがに人気者は大忙しですね。
漫画映画などによく登場する、各部活に引っ張りダコなスポーツ万能キャラみたいなもんですかね。
…ちょっとちがうか。

なお、「毘沙門天」というお名前についてですが、とりあえず”四天王形式”で顔を見せる場合は周囲メンバーに合わせて「多聞天」、ソロ活動・あるいは他グループにて活動されている時は「毘沙門天」という名乗りになるようです。

梵名は「ヴァイシュラヴァナ」
これが「吠室羅未拏(べいしらまぬ)」、「毘舎羅門(びしゃらもん)」などと音訳、それらがなまった末に「毘沙門」になったのだとか。
十回クイズみたいに、何回か言い続けていると、確かにそんなんに聴こえるようにも感じました。
なお、漢訳では「多聞」「普聞」とされています。
この「多聞」とは、常時道場を守護して説法をよく聞くところから、「全てを聞きもらさない知恵者」という意味で与えられたようです。
実はこの方、案外優等生なんですねー。

基本、現世利益を満たす神としての功徳が記されますが、日本では特に「四天王中での最強神」という側面がピックアップされ、護国・戦勝の神として古くから厚く信仰されるようになりました。
なるほど、やたら単独信仰されていた理由は「最強」だからなんですね。
ゲッター1みたいに、主役キャラのフィギュアが珍重されるみたいなもんですか。
…これもちと違うか(笑)

なお、こうした作例は日本だけのことでなく、インドから中国まで、幅広い地域にて独尊像として信仰対象となっております。
国内でもう一つの側面である福徳神として信仰されるようになるのは、室町時代以降のことなんだとか…。
ヒヨコ・雷
⇒ つづく。
  次回も毘沙門天です。

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完全変形ゲッターロボ <リニューアルバージョン>メタリックタイプ 完全変形ゲッターロボ <リニューアルバージョン>メタリックタイプ
(2007/06/03)
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※そんなこんなで「ゲッターロボ」です。
 やっぱりこの初期デザインが一番かっちょえーですね。
 そのうち信仰されるかも。
2007.07.22 Sun l 仏像 l コメント (2) トラックバック (1) l top
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は第六天魔王こと「織田信長」の弟、「織田信行」です。

尾張統一に奔走する兄「信長」
しかし、織田家中ではまだ認めない者は多く、林兄弟らの策謀に「柴田勝家」も同調。
信長を排除し、家中でも評価の高い信行に家督を継がせる
…こうして担がれた「信行」は主だった重臣らと共に遂に挙兵するのでした。
そんな流れで勃発したのが、弘治ニ年(1556)の兄弟対決「稲生の戦い(いのうのたたかい)」なのです。

信行勢は「林佐渡守秀貞」、「林美作守」、「柴田勝家」など織田家中の主だった将らの支持を受けております。
それに対し、信長勢は「佐久間盛重」「佐久間信盛」らと直属の手勢のみで、両軍は倍以上の兵力差があったようなのです。
合戦前では、完全に信行勢優位でありました。

…逆に言えば、後の英雄「織田信長」がこの時点ではどれだけ支持を得ていなかったか、分かると思います。
兵力に勝る信行勢はさかんに押して戦を優位に進めていました。
しかし、名塚砦を堅持し続けた「佐久間盛重」らの活躍、また信長本隊が直接「林美作守」隊を討ち取り壊滅させたことで事態は逆転。
信行勢は総崩れとなったのです。

合戦イメージ

末盛城に籠もった「信行」は信長勢によって包囲。
母である「土田御前」の取りなしにより、降伏した「信行」は清洲城にて兄「信長」と対面し、許され助命されるのでした。
この際、「林佐渡守秀貞」、「柴田勝家」ら計画立案した主だった者も揃って謝罪。
忠誠を誓っております。
勝利が疑いない戦況からの敗北は「織田信長」という人の実力を見せ付けられたことでしょう。
それを肌で感じた根っからの武人である「柴田勝家」とは違い、「信行」はうつけ者という兄の固定イメージが払拭できなかったようなのです。
もはや兄弟ではなく、敵対する邪魔な存在だったのでしょう。

弘治三年(1557)
再度謀反を企てる「信行」ですが、それは事前に「柴田勝家」によって密告され露見。
二度目は容赦せず、信長の居城清洲城へと誘い出され、謀殺されるのでした。

好きになった相手が実は離れて暮らしていた肉親だった、という悲劇があるのの逆。
いくら肉親でも、離れて暮らしていたことで”血のつながりある他人”となってしまったのではないでしょうか。
しかも、そいつは自らの両親とずっと暮らしてきたのです。
あまり肉親の愛情に恵まれなかったらしい「信長」にとって、「信行」は弟であるよりも憎い相手だったろうと思うのです。
まぁ、わかんないですけどねー。

おまけ。
その「織田信行」の子「津田信澄(つだ・のぶずみ)」は許され、永禄七年に元服して津田姓を称しました。
「信澄」は信長の武将として各地を転戦。
「明智光秀」の女婿となり、近江大溝城を与えられるなど活躍していました。
「一段の逸物」であったという説もありますが、そんな経緯を見るとあながち信憑性は高いのかもしれません。
しかし、信長三男「織田信孝」「丹羽長秀」らと共に四国征伐の準備中、「本能寺の変」が勃発。
「明智光秀」の縁者であったため、そこで殺されてしまうのでした。
しかし、親子揃ってあまり幸福な結末は迎えられませんね。

【 戦国メーター★織田信行 】
 家柄: ■■□□□ 守護代織田家とも無関係ですし、大した家柄ではありません。
 実力: ■□□□□ 見る限り大したものではないみたい。それを発揮する前に自刃。
 地理: ■■■□□ 諸勢力がひしめく尾張内部、東に今川・北に斎藤と強敵が控えているので。

カエル・孤独

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柴田勝家―ひたむきに戦国乱世を駈け抜けた男 (学研M文庫) 柴田勝家―ひたむきに戦国乱世を駈け抜けた男 (学研M文庫)
安西 篤子 (2002/03)
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※そんなこんなで柴田勝家くん。
 この人、秀吉とはウマが合いませんでしたが、絶対にイイ人ですよー。
2007.07.18 Wed l 歴史 l コメント (4) トラックバック (0) l top
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本日は第六天魔王こと「織田信長」の弟、「織田信行」です。

内外から「うつけ」と蔑まれ、奇行で知られていた兄「信長」
弟「信行」としては、そんな兄とは違う一面を見せること。
だって、同じことやったところで年長者にはなかなか追いつかないものですから。
別の個性を出すことで自身のアイデンティティー(…って言葉合ってるかな?)、みたいなものを示したかったのではないでしょうか。
その自由気ままさを羨ましくも思った時期もあるでしょうけれど、同時に眉をひそめる者の声も自然と耳に入ってくる訳でして…。
自分は兄とは違うのだ
そんなんを周囲に見せ、自己アピールしていたのだと想像します。
それがため、ことさら真面目に、礼儀正しく振舞うことに繋がったのではないでしょうか。
兄弟ってのはそんなものでしょう。
ひでるさんも兄弟がいるので、その感覚はなんとなくではありますが理解できます。

清洲城

さて、うつけ者と呼ばれた兄に対し、「織田信行」は父「信秀」を筆頭に家臣団の評判もすこぶる良く、父の死後はその隠居城である「末森城」と「柴田勝家」ら家臣を受け継ぎました。

一方、順調に織田本家の後を継いだ嫡男「織田信長」は早速、松葉城、深田城の織田氏を攻め滅ぼしました。
続いて、主家筋にあたる清洲城・尾張下四郡の守護代「織田大和守信友」を叔父の「織田信光」と謀って攻略。
その本拠を奪ったばかりの清洲城へと移すのでした。これが弘治元年(1555)のこと。

弘治ニ年(1556)
しかし、美濃で信長の舅であり、最大の後ろ盾であった舅「斎藤道三」が嫡子「義龍」との戦いによって長良川に敗死。
その「斎藤義龍」と結んで、織田家乗っ取りを図った異母兄「津田(織田)信広」は、素早く行動した「信長」に降って配下に。
…などなど、切れ者であった「信秀」の存在によって一時は大人しくしていた国内反対派を地道に潰していくのでした。

徐々に勢力を拡大させる兄「信長」
しかし、信長宿老の「林佐渡守秀貞」、「林美作守(通具)」らはいまだそれを認めず、「信長を排除し、家中でも評価の高い信行に家督を継がせる」べく、対立。
あらかじめ、彼らは弟である「信行」の擁立を色々画策していたようです。
そんな林兄弟らの策謀に「柴田勝家」も同調。
こうして、兄弟の争いへと発展していくのです。

なお、尾張守護代、岩倉城の「織田伊勢守」と内通しているという風評もあったようでした。
こちらの真偽は定かでありませんが、こういったことも一つの原因となっていたのでしょう。
(※真実であれば、対立する気満々。そうでなければ、関係悪化を狙われていたのでしょう)

行動を起こした「織田信行」らは信長台所入所領の横領を行い、続いて信長方の名塚城を攻撃します。
それに対し、出陣した兄「信長」と稲生原にて、ついに直接対決となるのでした。
これが、弘治ニ年(1556)の内乱「稲生の戦い(いのうのたたかい)」なのです。
カエル・ぷんぷん
⇒ つづく。
  次回は「実弟と直接対決する魔王」

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完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2) 完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2)
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※外国人、という完全な第三者の視点で接したルイス・フロイスの書いていることは実に興味深いです。
 こんなんは戦国ファンにオススメ!
2007.07.13 Fri l 歴史 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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本日は第六天魔王こと「織田信長」の弟、「織田信行」です。

守護代「大和守達勝」に仕える、三奉行と呼ばれた有力家臣の一人「織田信秀」
その「信秀」には兄「信長」、弟「信行」というわずか二歳違いの兄弟がありました。
親兄弟での争いも珍しくない戦国時代
この兄弟も父「信秀」の死を切っ掛けとして、避けられない争いへと発展してしまうのでした。

天文二十年(1551)
不屈の闘志で東は今川勢、北に斎藤勢、と内外に脅威とされていた「織田信秀」ですが、その死は実にあっけないものでした。
なんと、疫病にかかって死去するのです。
享年は四十二。
その葬儀は織田家の菩提寺「万松寺(ばんしょうじ)」にて執り行われました。
かなり盛大なものだったらしく、「万松寺」には三百人という人数の坊主が集められたようです。

ここで弟「信行」は付き家臣である「柴田勝家」「佐久間盛重」を従え、折目高の肩衣と袴を身に付け、楚々としておったそうです。
…よくわかんないですよね。
まぁ、要するに、形式通りでキチンとしていたのですよ。

会議イメージ

一方の兄「信長」は喪主であるにも関わらず、その場におりませんでした。
後見の「平手政秀」「林佐渡守」らの心配をよそに、なんと早朝から鷹狩りに出かけたっきり戻らなかったのです。
ちなみに、この「鷹狩り」というのも、親族の亡くなった日にすべきものではない様子なの(笑)

そんな訳で、「やっぱり大うつけ」という印象を葬儀という席上にて皆に印象付けるんですが、それだけでは済みませんでした。
なんと、「信長」は遅れて葬儀に顔を出したのです。
その服装は”長柄の太刀をしめ縄で腰に巻きつけ、茶筅巻きの髪”という、鷹狩りに赴いたそのままのものでして、おまけに礼儀作法を無視して、抹香を位牌に叩きつけたりしたのです。
(※これ定説ですが、実際はだいぶ誇張されてるのかもしれませんねー)
これには、周囲の者も驚くと同時に呆れ果てるのです。

さて、この行状を目の当たりにした弟はどう考えるのか。
おそらくは、
このような兄では織田家を背負って立つことができない。だから、代わりに自分がなんとかしなければならない
…きっと、こんなんでしょう。
何もしなければ一生兄の風下、家臣として仕え続けなければなりません。
織田家のため、という大義名分もあり、また自身がトップに立てるという欲望も叶えられるかもしれない…。
自分が行うことは結果的に良いこと
これは、若い「信行」にとって大変魅力的だった筈です。
さらに、彼の周囲にいる者たちも「兄があんな行状では、織田家の行く末は真っ暗だ。ここはしっかりとしている信行さまが後を継ぐのが良いのではないか?」みたいなことを噂し、実際当人に吹き込んでいたのだと思います。
単純に、礼儀正しい「信行」はそのまま聡明に映り、粗暴な「信長」はトンデモない人に見えたでしょうからね。

また、天文二十二年(1553)「平手政秀」が自害(諫死)したことも、信長が家中で孤立する要因となってしまうのでした。
ヒヨコ・タテ線
⇒ つづく。
  次回は「尾張統一戦と画策する魔王の弟」

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※お城です。ぜひ、となりにゴモラを配置して飾って下さい(笑)
2007.07.09 Mon l 歴史 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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本日は第六天魔王こと「織田信長」の弟、「織田信行」です。

尾張守護である斯波氏の衰退で勢力を得た守護代の織田家。
上四郡を支配する岩倉城「織田伊勢守」、そして下四郡の「織田大和守達勝」
下尾張守護代である「大和守達勝」には”三奉行”と呼ばれる有力家臣がいたのです。
その一人こそが信長の父「織田弾正忠信秀」だったのでした。

この「織田信秀」という人は三奉行でも特に傑出した人物でして、陪臣でありながらも周囲を圧倒して、ほぼ尾張の実権を掌握。
この頃はまだ守護代家の両織田氏が健在であったものの、実力と人望を得ていた「信秀」には逆らえず、くすぶった火種を抱えつつも勢力を得ていた「織田信秀」によって、一つにまとまっていたのです。

また、「信秀」は実力だけでなく、都に四千貫という修理費を献上できるなど、並々ならぬ財力を持っておりました。
ここはなにげに見逃せない点でして、農業だけでなく商業についての感心があったらしく、ちゃっかり経済流通都市を支配していた結果の裕福さであるようです。
これは嫡男「信長」、そしてその後継者となった「豊臣秀吉」へと引き継がれていくのでした。

名古屋城

さて、信秀の嫡男は天文三年(1534)那古屋城にて誕生した幼名「吉法師」こと「織田三郎信長」です。
わずか二歳にして、奪ったばかりの那古屋城を与えられております。
元服は十二歳のこと。天文十五年(1546)

続く次男、本編主人公の「勘十郎信行」は天文五年(1536)に誕生。
なお、父「信秀」は、天文八年(1539)には古渡城、天文十七年(1548)には末森城と居城を次々に移しており、正室の「土田御前」もそれに従っていたと考えられます。

…あちこち手持ち資料にはっきりとした記述はありませんでしたが、早々に那古屋城を与えられて手放された嫡男「信長」とは違い、次男「信行」は両親と共にあったのではないかなーって思うのですよ。

わずか二歳違いの兄弟。
このわずかな年齢差も、両者の間に影を落とす原因となったのかもしれません。
一方はほぼ将来を約束された嫡男、そしてもう一方はその臣下となる身。
しかし、多感な幼少期の過ごし方は、早くから一人にされた一方と、父母と共にあったもう一方というように、大きく異なっていたのではないでしょうか。
ヒヨコ・不機嫌
⇒ つづく。
  次回は「万松寺の葬儀と奇行の魔王」

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※これで君も織田信長だっ!!
 …という訳で。
 ほしいんですが、残念ながら飾るスペースなく…ああっ。
2007.07.05 Thu l 歴史 l コメント (0) トラックバック (1) l top
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本日は第六天魔王こと「織田信長」の弟、「織田信行」です。
信長が語られる時、尾張統一戦はすっ飛ばされて「桶狭間合戦」となることが多く、あまり名が出ませんね。

戦国時代の兄弟関係ってのはなかなか難しいもので、島津・北条家のように一致団結した例もありますが、伊達・上杉家のように対立することも珍しくなかったのです。
こちら織田家でも、同様に対立することとなってしまうのでした…。

織田信長

まずは織田家から。
後に「織田信長」が称していた平氏、(あるいは藤原氏とも言っていた)というのは、詳細不明。
これは当時の武士にあった源平交代思想が影響しているだけのことみたい。
(※平清盛[平氏]→源頼朝[源氏]→北条氏[平氏]→足利氏[源氏]→だから次には平氏となるのです)

ある程度確かなところでは、越前・織田荘の荘官(しょうかん:領主の命を受けて、年貢の徴収・治安維持などの任務を遂行していた者)、あるいは剣神社(※福井県丹生郡織田町金栄山鎮座)の神官。
越前守護だった斯波氏は尾張守護も兼ねることとなり、「織田伊勢入道常松」を尾張の守護代に任命しました。
これが応永七年(1400)のこと。

その「織田常松(※常昌とも)」は兄弟の「大和守常竹」も守護代に任命。
これがため、伊勢守系統(上尾張)、大和守系統(下尾張)という二派が支配するようになった切っ掛け。
…もめる原因なの(笑)

その、下尾張守護代である「大和守常竹」にいつからか仕えていたのが、「織田信定(※信長の祖父)」、そしてその子が”三奉行の一人”としてほぼ尾張の実権を握っていた、「織田信秀(※信長の父)」その人だったのです。
なお、守護代「織田大和守」らと同じ織田姓ではありますが、それら織田氏との関係はあやふや。
現在の調査では”繋がりはない”という説が有力のようです。

さて、そんなこんなで戦国期の尾張情勢です。
尾張国の守護大名は管領家「斯波氏」でした。(※いわゆる三管領の一家ですよ)
その斯波氏は分裂・対立し、最悪の市街戦「応仁の乱」が拡大した要因の一つとなっておりますが、内部争いを続けた結果どちらの勢力も大いに衰退していたのです。
こうして、尾張という地盤をしっかり確保していた守護代「織田氏」がその実権を握っていくのでした。
いわゆる下克上なんですね。

さて、その尾張ですが、上四郡は岩倉城「織田伊勢守」、下四郡は「織田大和守達勝」が支配しておりました。
下四郡支配の「織田大和守達勝」には”三奉行”と呼ばれる有力家臣三名が支え・仕えておりました。
その一人が勝幡城を本拠とする信長の父「織田弾正忠信秀」だったのです。
こちらもまた下克上なのでした。
カエル・にっこり
⇒ つづく。
  次回は「魔王の父と二人の息子」

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決定版 図説・源平合戦人物伝 決定版 図説・源平合戦人物伝
左方 郁子 (2004/09/12)
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※最近は源平合戦らにも興味があるひでるです。
 総勢186名だそうですよ!ほしいですね!!
2007.07.01 Sun l 歴史 l コメント (2) トラックバック (0) l top
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本日は京都市左京区の「金戒光明寺」です。
最近はどのお寺が紹介していて、どこがしていないのか、よくわかんなくなってきました(笑)
こちら「金戒光明寺」はまだやっていなかった…と思いますが。やってないよね?

なんだか格好いい名前ですね、「金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)」って。
(※おもろいので残しましたが↑その読みは間違い。本当は「こんかい・こうみょうじ」が正解なの。てへ☆ ⇒ご指摘頂きました京都暗記帖さま、毎度助かります!さすが!!)
漢字六文字がしっくりくるのでしょうか。
こちらはあの「知恩院」と並ぶ格式で、浄土宗の大本山なのでした。
大本山シリーズです(そんなんない)

大本山って聞くと大層凄いイメージがあるかもしれませんが、実は総本山のが寺格は上で、大本山のが下
所属している末寺を統轄するお寺なんだそうな。
ちなみに、浄土宗の総本山は「知恩院」です。

文殊塔
こちらは浄土真宗七高僧の一人、「円光大師」こと「法然上人」がはじめて草庵を営んだ地に建てられたというお寺です。

十五歳で比叡山へ登った「法然上人」
承安五年(1175)
四十三歳で修行を終え、教えを広めるために下山した「法然上人」はこの地にて念仏をしました。
…すると、紫雲全山にみなぎり、光明があたりを照らした…ことから、このお寺が生まれたんだとかなんとか。
あはははははは、まぁ冗談は置いといて。
実際には「法然上人」の草庵程度だったところが次第にお寺っぽくなっていった、ということだと思います。

本尊はパンフレット表紙を飾るふくよかな阿弥陀様。
こちらは浄土真宗七高僧の一人、恵心僧都(源信)の最終の作であります。
そうすると平安時代末期頃の作なのかな。
お腹に彫刻の器具が納めてあることから、「ノミおさめの如来」とも呼ばれているのです。
そんな阿弥陀様がおられる阿弥陀堂は慶長十年(1605)「豊臣秀頼」によって再建されたもので、こちらが現存する建物で最も古いものとなっております。

開祖「法然上人」がおられる御影堂には七十五歳での坐像が安置されています。
ここは火災に遭い、現在のものは昭和の再建なんだって。
なお、こちらは明治維新の際には京都守護職の会津藩と新撰組の屯所が置かれていました。
そんな訳で「新撰組発祥の地」とか名乗っていました。
読みづらいと評判の「松平容保(まつだいら・かたもり)」さまはここで近藤・芹沢らに拝謁したのかもしれませんね。

注目すべきはパンフレット。
見開きがイメージ映像みたいで、大変格好いいものに仕上がっております
これからパンフ作成を考えているお寺の方は参考にしてみるのが良いでしょう。

池の水 人の心に 似たりけり
濁り澄むこと 定めなければ
智者のふるまいをせずして
ただ一向に念佛すべし
                    (※パンフレットより)
                    
そんな文字と共に夕暮れに浮かぶ「金戒光明寺」と阿弥陀様の写真があり、中には春夏秋冬な写真と各所の説明。
裏の地図やアクセスも詳細で、イイ雰囲気でした。
カエル・晴れ

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[住所]
 金戒光明寺 京都市左京区黒谷町121


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敗者から見た明治維新~松平容保と新撰組 敗者から見た明治維新~松平容保と新撰組
早乙女 貢 (2003/11/27)
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※いまだファンの多い「松平容保」さまと「新撰組」です。
 光栄のシミュレーション「維新の嵐」ではどちらもプレイヤーキャラでしたねぇ…。
2007.06.28 Thu l お寺 l コメント (0) トラックバック (0) l top
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は魅惑の神様、日本国の総鎮守神「蔵王権現」とその信仰について。
はっきり言って、先の「蔵王権現」ネタであぶれたお話なのですが…。

さて、日本国土の大半は山岳、丘陵地帯ですよね。
現在でも危険とよく言われていますが、奈良時代平安時代のそこは厳しい自然に溢れ、体力と知識が必要不可欠でした。

また、山には神様がいると古来より信じられておりましたから、その下で修行することこそ霊験感得の方法と考えられたのでしょう。
結果として、古くからの「神道」、大陸から渡ってきた「密教」、当時は神秘的にとらえられていた「陰陽道」などが混ざり、自然・山岳崇拝的な「修験道」という新しい修派が形成されていきました。
その本尊として選ばれたのが「蔵王権現」なのです。

平安時代初期頃には存在していたらしい「蔵王権現」さま(笑)
「執金剛神(しゅうこんごうじん)」の総称で、「金剛薩埵(こんごうさった)」の変化と言われています。
続く平安時代後期頃、吉野山で修業をしていた南都験者たちによってまとめられ、「金剛蔵王」・「金剛童子」・「金剛力士」などの信仰をもとに神格が創案されていったのでした。

なお名称の初出は、寛弘四年(1007)
「藤原道長」の願文「南無教主釈迦蔵王権現」という文句とされています。
ただし、それ以前にも、金峯山(きんぶせん)で修行中の「道賢」が「執金剛神」の導きで「蔵王菩薩」に会ったエピソードなどが残っており、”もともとは「蔵王菩薩」と称されていた、金峯山の守護神ではないか?”と想像されています。
蔵王権現

平安時代末期から金峯山が修験者たちの拠点となってくると、彼らのヒーロー「役行者(えんのぎょうじゃ)」が実はこちらの「蔵王権現」を感得していたのだ、という伝承が生み出されていったのです。

そんな訳で、行者さんと「蔵王権現」の関わりは実際のところ未知数でして、完全に後付けなんですね。
話に尾ひれがついた…というよりも明確な意思があるようなので、有名人を宣伝に起用したのでしょう。
政治家の応援演説みたいなもんですか。ちょっと違うか。

一般的に知られている「金剛山秘密伝」には、「役行者」が祈祷すると「釈迦如来」・「千手観音」・「弥勒菩薩」の諸尊、さらにその後に「蔵王権現」が出現したとされています。
それが「太平記」になると「地蔵菩薩」が最初で、後に「蔵王権現」が出現したとされ、「両峯問答秘鈔」では最初に童子が出現したこととなっているのですよ。
どれが本当か、というより、全てウソではないか、って(笑)

修験道が最も流行した中世期では吉野山に、
・山下の「蔵王堂」 :吉野山・金峯山寺の蔵王堂。現存。
・安禅の「蔵王堂」 :金峯神社付近にあったとされる。
・山上の「蔵王堂」 :現在の大峯山寺。
…などが設けられ、「蔵王権現」は修験道の主尊という位置づけにされていきました。

鎌倉時代となると、正月には蔵王供養、毎月十九日には蔵王講が行われ、そのための教義書まで作られていくのです。
(※先の「金剛山秘密伝」は鎌倉時代のもの)
これらによって、「蔵王権現」は「釈迦・観音・弥勒」の徳を一身にそなえた神格とされ、諸魔を降伏し、七難即滅、七福即生をもたらすという信仰が広まっていったのでした。
めでたし・めでたし。
カエル・(笑)

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※ひでるさんのヒーローと言えばやっぱり「ウルトラマン」ですね。
 なんか適当な伝承を流布して定着させれば、後の世に「実際いた」ってなるかもしれませんよ。
2007.06.24 Sun l 仏像 l コメント (0) トラックバック (0) l top
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はたまーに見かける…かもしれない、「蔵王権現(ざおうごんげん)」について。

だいたいが直立だったり、座っている仏像たち。
その中で、いまにも動き出しそうな、ドラクエの「うごくせきぞう」みたいな仏像があるのをご存知でしょうか?
日本国の総鎮守神。
「金剛蔵王(こんごうざんおう)」「蔵王菩薩(ざおうぼさつ)」とも言う、大和吉野金峯山(やまとよしの・きんぶせん)蔵王堂の本尊こそがこちらの「蔵王権現」なのでした。

蔵王権現

時は奈良時代
呪術をもって知られ、後に修験道の祖とされる「役行者(えんのぎょうじゃ)」さま。
その「役行者」が大峰山(山上ヶ岳)で感得した魔障降伏の菩薩なのです。
話としてはこんなん。

「役行者」が大峯山を開いたとき、彼の祈祷によって釈迦・千手観音・弥勒という三尊が現われました。
さらに、所願にそって念じたところ、青黒色の憤怒神が出現したのでした。

青黒色の憤怒ですか。
…間違って化け物呼び出してたりして(笑)
いったい何を願っていたのやら。

ともかく、そんな話から、山下吉野金峯山寺本堂では、「蔵王権現」三体を祀る蔵王堂が建てられたのでした。
その三体は、釈迦・千手観音・弥勒を表現しているんだって。
(※要するに、それが本体・本源という意味でして、尊格(本地仏)のことなの)

山岳信仰と密教が結びつき、金峯山における修験道が確立した以降の成立が一般的です。
「蔵王権現」の姿は根拠が不明。
「五大力菩薩」「執金剛神(しゅうこんごうじん)」「金剛蔵王菩薩」がもとになったという考え方があります。

一般には一面三目二臂で憤怒相を示しております。
身体は青黒色に彩色され、右手は三鈷杵を持って振り上げ、左手は腰の辺りで剣印(人差し指・中指立てたような印相です)を結び、さらに右足を高く上げるという、いまにも踏み出してきそうな躍動的な姿の珍しい像です。
なお、右手に剣印を振り上げて左手を腰に添えたもの、あるいは金剛杵(こんごうしょ)を振り上げたもの、左右手が逆になっているものなどもあります。
だいたいがそんな感じで、簡単に見分けることができるでしょう

最古の像は長保三年(1001)という、東京・総持寺(西新井大師)の鏡像。
また、奈良・如意輪寺では源慶の重文があり、桜の一木造。
こちらは足利氏との戦いから逃れた「後醍醐天皇」が勅願所としたお寺で、「楠木正行」が出陣前に辞世の歌を刻んだ扉があることでも知られていますね。
発祥の地である金峯山寺本堂には、八メートルにも達する巨像があります。

「蔵王権現」は修験道の本尊であり、ご利益を得るには単に祈願する程度では危険。
除災・除魔の力は大変に強力で、霊験を疑った男がカエルにされてしまうというエピソードもあります。
(※寸劇風の祭「蛙とび」ってやつらしい)
たいへんに位の高い神様でして、東大寺のお水取りでは全国諸神よりも早く名を呼ばれるのです。
「おん、ばきりゆ、そわか」が真言ですが、くれぐれも安易に唱えないように。
カエルにされちゃいますよん。
カエル・ガーン

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※なかなか面白いですよー。
 こちらで「うごくせきぞう」を作ってみてみて!!
2007.06.20 Wed l 仏像 l コメント (0) トラックバック (0) l top