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本日は梟雄とも名将とも言われる、東北地方にて下克上を成功させた「津軽為信(つがる・ためのぶ)」について、です。
戦国時代でひでるさんが弱いのが、この東北地方と四国。
大雑把には理解しているつもりなんですが、特に東北地方は「伊達政宗」の動向を中心としたその周辺程度しか知らないんですねー。
秋田氏とか、南部氏とか、蠣崎氏とか、この津軽氏も同じこと。
そういった大名が統べていた、ってくらいしか知らないのですよ。
そんなこんなで、本日は勉強も兼ねて東北の出世頭、虚像が入り乱れる「津軽為信」について。

※そんなこんなで、こちらが「津軽為信」さま。
津軽氏は陸奥津軽地方の有力豪族、国人でした。
当初は大浦城(岩木町)にて「大浦氏」を称し、付近の有力大名であった「南部氏」に臣従していたのです。
「近衛尚道」の流れという説もあるようですが、不確か。
この大浦氏については資料が少なく、また残っているものにも津軽地方と南部地方で違いがあるため、はっきりとしたところは不明であるようです。
…というのも、南部地方での見解では「津軽為信」は
主家南部家から反逆・独立した梟雄として知られているからです。
天文十九年(1550)
これは有名な事件ですと、「濃姫」がうつけと有名であった「織田信長」へ嫁いだ次の年です。
「大浦守信」の嫡男として誕生しました。
なお、陸奥国久慈城主「久慈治義」の次男である、という説もあるようですが不明。
主家であり、叔父「大浦為則」の養子となった後にはわずか十七歳で家督を継ぎ、当主となっておりました。
元亀二年(1571)
南部家中では有力な一団でしたが、名将「南部晴政」が病没すると家督争いが勃発し、分裂して争った結果衰退してしまうのです。
こうして本国が混乱していた最中を狙って、為信は独立の動きを見せるのでした。
そんな頃、「南部信直」の実父「南部(石川)高信」は政治・軍事両面で影響力を発揮し、領国拡大に功績があった重臣でした。
津軽三郡を統べており、石川郡に石川大仏ヶ鼻城を築いて石川氏を称しておりました。
先の南部本家の混乱に乗じた為信はそんな「南部(石川)高信」を突如急襲、これを討ち取ることに成功するのでした。
(※高信には実は多くの豪族が反発していた、という説もあるんですが、実は微妙なのかもしれません。理由は下)
しかし、「南部(石川)高信」を討った、というのは別に”天寿を全うした”という資料もあるんですね。
そちらが述べるには、付近の有力者で南部宗家と対立していた「九戸政実(くのへ・まさざね)」とあらかじめ通じ、さらに「大光寺光愛(だいこうじ・みつよし)」を讒訴によって追放。
こうして事前に謀略を重ねてその支配力を削ぎ、高信の次男で後を継いでいた「南部政信」を招いて宴を張って、
毒殺したというのです。
そんな感じに、ひそかに勢力を伸ばしていった悪人が「津軽為信」とされているのです。
果たしてどちらが正しいのやら…。
まぁ、多かれ少なかれそういった裏の手段を使いつつ、勢力拡大していったのでしょう。
英雄というのはそうしたものでしょう。
ちなみに、「津軽為信」は後の禍根を除くために義弟を
暗殺(※舟遊び中に溺死という)、津軽統一戦での盟友であった千徳一族を
排除。
さらには一族の重臣「森岡信元」を
暗殺した、なーんてエピソードが揃っているのです。
…もう一度書きますね。
果たして、どちらが…正しいのやら……。
⇒ つづく
次回は後編をお送りいたします。
[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 北条早雲
<前編> <後編>⇒ 松永久秀
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(1) (2) (3) (4) (5) (6)⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [
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