お寺さんぽ ver.02
★現在「お寺さんぽ ver.3」へ引っ越し済みです

★「お寺さんぽ Ver.03」へ移行します

のんびり気軽にさんぽがてら。
…えー、「跡地」のほうもご覧頂いておりますありがたい方は、お気づきな人もいるでしょう。

ひでるの事情により、こちらの「お寺さんぽ ver.02」は閉鎖することとしました。
リンクして頂いている方、お越しくださる方、ありがとうございました。

今後は「お寺さんぽ Ver.03」として、「跡地」でやっていた元のgooブログに統合します。
とりあえずは記事の引っ越し作業をしております。
gooからFC2の時は一括読み込みが出来て簡単(※当然画像とかは引き継がれない)だったんですが、逆の場合は1記事ずつアップの必要があり、ゆっくりになると思います。

色々ご迷惑をおかけしますが、引き続き「お寺さんぽ Ver.03」を見ていただければ幸せです。
今後も宜しくお願い致します

カエル・にっこり


安土城.jpg


…そう、一時期は「お寺さんぽ跡地」、「お寺さんぽ ver.02」、他ブログと、3つのブログを同時更新という、今にして考えると離れ業みたいなことをやっておりました。
いやー、あのあたりは忙しかったですね。
毎日、ちょっとでも時間が空けば、ブログ記事を書くという日々でした。
しかし、仕事ほか私生活が以前よりも多忙になり、毎日の更新ができずに週何日かになり…。
それがため、趣味の時間がなくなるという変な現象だったりして(笑)

書いている内容がそれぞれ違うので別々にしておりましたけれど、体調おかしくしたり、なんだりと色々ありました。
来られる方にはジャンルの統一感なくて申し訳ないですが、この機会にまとめさせて頂くこととした次第なのです。

更新ペースはゆっくりなままになるでしょうけれど、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
ありがとうございました。
ヒヨコ・おねがい


上杉謙信

※あたらしい記事では軍神「上杉謙信」さまをとりあげる予定です。
 とりあえずは、引っ越し落ち着いた後に…。

テーマ:お知らせ - ジャンル:ニュース

千手観音菩薩 (仏像・菩薩)

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…大して仏像について興味がない方でも、「なんかよくわからんけれどスゴイっぽい」と感じるだろう(←たぶん)、無数の手と顔を持った、スペシャルなお方「千手観音菩薩」です。

ちょっと似た方で、顔がいっぱいの方「十一面観世音菩薩」は過去に紹介しております。
こちらの「千手観音」さまは顔だけでなく、手も沢山お持ちで、なにかと色々便利そうなのですよ。
ブログとかいっぱい書けそうですよね。

一見、あまりな異様さにギョッとする容姿なのですが、じっくり見ているうち不思議と違和感なくなり、その特異な雰囲気に圧倒されることでしょう。
…たぶん。
わかんないけど(笑)

千手さま.jpg
※ちょっとインドっぽい千手さまです。

さて、そんなこんなで「千手観音菩薩」さま。
正確には「千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざい・ぼさつ)」と言います。
ほかに「蓮華王(れんげおう)」という別名もあります。

梵名は「サハラスラブジャ」
「千」は無量円満…えーっと、「果てしなく満ち足りている、数多くの願いを成就する」ってところですかね。
最も早く考え出されたという「十一面さま」と並び、変化観音では早期に現われたそうなのです。
誰が考案したのか知りませんが、えらく豊かな想像力ですね。

なお、千本ある手は”多くの人々に救済の手を差し伸べる慈悲”の表現。
千個の眼は”人々を教え導く知恵”の表現。
同じく顔がいっぱいある「十一面さま」とは、その意味が微妙に異なっているんですね。

千本の手で救済の手を差し伸べ、千個の眼で教え導くという、その広大な誓願の内容を現わしているのです。

また、六観音の一人として活動する場合は、”あらゆる人々の苦悩を救済する無限の力がある”と説かれていることから、特に地獄へと落ちた者を済度(※)する観音とされております。

見分け方としては…まぁ、ここでわざわざ書き記すこともないでしょう。
手がいっぱいの方です。
千本の手ですが、ほとんど実際は四十二臂に作られることが多いそうです。
これは、中央で合掌印を結ぶニ臂を除く、残り四十の手が一手につき二十五の衆生を救う…すなわち、
 25×40=1,000
…という訳なの。
なるほどねぇ、テキトーに見えてちゃんと意味があるのですよ、そこの方(笑)
それぞれの手には救済の力を示すものとして、日、月、錫杖、剣、弓、輪宝(りんぽう)、宝珠(ほうじゅ)、などを持っております。

頭上には十一面の顔(化仏)、本面(正面の顔ですね)は三眼。
実は掌にもそれぞれ一眼あったりするのが本当ですが、仏像・絵画で表現するのは困難であるため、たいていは省略されているそうです。
あったら気持ち悪いですもんね。
眷属としては「二十八部衆」、「風神」「雷神」を従えることが多いようです。

実際に千手ある作例として、大坂「葛井寺(ふじいでら)」
こちらは天平期の傑作というべき仏像。当然ながら国宝で、写真で見てもモノスゴイです。
必見。ひでるさんもいつかナマを見に行きたいですね。
ほか、奈良「唐招提寺」、こちらは立像。
有名な所では、京都「三十三間堂」、こちらはあの「運慶」の嫡男「堪慶(たんけい)」作なのです。
修学旅行などで行く機会が多いところなので、たいていの方が覚えて…ないか(笑)
ぜひ、もう一度見に行ってあげて下さいね。

一切の衆生を利益し、安楽を与えるという、観音の慈悲のはたらきを最大限に表現した尊格。
先の「二十八部衆」な皆さまが使役され、あらゆる願望に応じてくれる万能の仏さまです。
ご利益としては「千手敬愛法」という男女が長く相思相愛でいられるというものから、除病、安産、果ては破地獄という「大悲心陀羅尼」というものまであったりします。
本当は色々やらんといけないのですが、とりあえずこちらの真言を唱えましょう「おん、ばさら、だるまくりく」…
カエル・にっこり
(※)済度[さいど] →goo辞書より抜粋
1) 衆生を苦海から救い、彼岸へ導くこと。〔「済」は救う、「度」はわたすの意〕
2) 困ったり苦しんでいる境遇から助け出すこと。

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⇒ 毘沙門天 (仏像・天部) 前編 後編
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⇒ 大天狗像
⇒ 千二百羅漢像 びんずるさま

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※どうですかー、の唐招提寺・千手観音です。
 そこらのグラビアクイーンなんて目じゃないですよ!

テーマ:神社仏閣 - ジャンル:学問・文化・芸術

因幡薬師・平等寺 (京都)

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都・烏丸駅、地下鉄烏丸線・五条駅よりすぐ近く因幡薬師こと「平等寺」です。
これが「院」となると超有名寺院になるんですけれどねぇ。
まぁ、こちら「平等寺」も日本三如来の一つとして数えられているんですが。

ちなみに皆さん気になる(…ならない?)日本三如来ってーのは、京都・嵯峨釈迦堂の「釈迦如来像」、長野・善光寺の「阿弥陀如来像」、そしてここ平等寺の本尊「薬師如来像」(※)なのです。

平等寺

この薬師様は、長徳三年(997)というから平安時代のこと。
因幡国(※現在の鳥取県東部)の国司であった「橘行平(たちばなの・ゆきひら)」は勅命の途中で病を発し、寝込んでしまいます。
そんな行平の枕元にすぅーっとオヤシロ様…でなくてが現われました。
この国の海中に木があるから、引き上げて供養すれば病気も治るよん
みたいなことを言われ、行平はふと目覚めるのです。

そのお告げに従って因幡国は賀留津(かるつ)に赴くと、その海中から一体の「薬師如来像」を引き上げるのでした。
残る「因幡堂縁起」によると、像は仮堂に安置し、無事病の治った行平は京都の自邸へと戻るんですが、それを追うようにしてなぜか薬師如来像も京都に飛来(笑)、その自宅に入ったのです。

はー…すごい・すごい(棒読み)

逆に、もし仮にこれが本当だとしたら、呪われている可能性もありますよね。
…ごめんなさい、軽いジョークですよ。

さて、猫に餌あげたら自宅までついてきた、みたいに付きまとわれてしまった行平は自宅を改造してこれを祀るのでした。
これが「平等寺」の起こりです。

その嘘話…じゃなくて噂話(笑)は広く親しまれ、それ聞きつけた民衆からなんと天皇家までが参拝、深く信仰されることとなるのでした。

承安元年(1171)には、なんと高倉天皇より「平等寺」の勅額を賜ることとなるのです。
その後、一遍聖人が布教の際の起点とし、猿楽興行や歌舞伎興行(江戸時代)、また浄瑠璃発祥の地ともいわれるほど、京都の民衆らに親しまれる町堂となっていくのでした。

同時に、度重なる火災にも遭った結果、寺領は次第に小さくなり、明治維新の際にはなんと堂宇が灰燼に帰すこととなるのです。

本堂が復興したのは明治十九年のことだそうで、こちらが現在の本堂となっているのでした。
薬師様は運良くそんな火災からも逃れ、当時の面影を今に残しておられます。
こちらは一木造りの立像で、左手にちょこんと薬箱を乗せておるのでした。
ラブラブ
(※)本尊「薬師如来像」は通常非公開。
   八月八日・四月八日午後の特別公開。

[関連記事] 【如来のいろいろ】 
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
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⇒ 薬師如来 蛸薬師 飛鳥・薬師三尊像
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⇒ 毘盧遮那如来
⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)

[住所]
 平等寺(因幡堂) 京都市下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728
※後方ビルとのギャップが素敵でしょ?

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※ちょっと気になるタイトルなのでチョイスしてみました。
 仏の素顔って!?

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大名になった加藤くん、松山城を築く (加藤嘉明)5

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまのラストをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。
…でも、あらためて見返すと、「嘉明さま」があまり登場しておりませんね(笑)

加藤嘉明.jpg

天正十一年(1583)
賤ヶ岳での追撃戦で、ライバル柴田隊を散々に打ち破った羽柴勢。
今回の主役「加藤嘉明」もそちらにて華々しい戦功をあげるのでした。

以後は秀吉軍団の一員として、根来・雑賀討伐、「佐々成政」の越中討伐などに参加。
四国征伐・九州征伐の際には、水軍を率いて参加しております。
小田原・北条氏攻めでも船団を統率し、毛利、長宗我部、宇喜多らの水軍と相模湾に布陣しておりました。
それらの功によって、天正十四年(1586)には淡路志智城主として一万五千石を与えられるのでした。

苦節…二十三年、一時は浪人した(←父ですが)ものの、見事大名へと成り上がったのです。
あるいは、徳川家臣のままであれば、ここまでの出世はなかったかもしれませんね。
わかんないけど。

以後、「文禄の役」でも、舟奉行として参加。
続く「慶長の役」にも参加し、「小西行長」「島津義弘」らと共に「元均」率いる朝鮮水軍を巨済島にて撃破など、活躍しております。

こうして、文禄四年(1595)には、伊予松前城主、六万石を与えられました
なお、秀吉が関白となると、それに合わせて従五位下左馬介となっております。

さて、秀吉の没後は多くの武断派大名と同じく、「石田三成」への反目から「徳川家康」に接近。
「関ヶ原合戦」では東軍方として、前哨戦である岐阜城・大垣城攻略戦に参加
各将入り乱れる関ヶ原では、「黒田長政」「細川忠興」らと共に布陣し、石田隊と激しく戦っております
また、豊臣恩顧の大名が苦慮した「大坂冬の陣」では江戸にて留守、「大坂夏の陣」では徳川方として参加するのでした。

それら功により、伊予松山二十万石を与えられ、現在も残る重文「松山城」を築くのでした。
以前の居城であった松前の「松」、勝山(※勝山山頂に本丸がある)の「山」を取って、「松山」という地名にしたそうです。
実は、嘉明さまはこちらの命名主なんですね。

こちら松山の城、および城下町を整備したのは、この「加藤嘉明」の実績です。
合戦での功が目立つ嘉明ですが、政治力も持ち合わせていたのです。

寛永四年(1627)には「蒲生氏」が転封された後に会津へ入り、なんと会津若松四十万石に加増転封
官位も、最終的には従四位下侍従にまで昇進するのでした。
ちなみに、会津若松では、城内の屏風に家臣らの甲冑をそれぞれ描かせ、戦場で見誤らないよう常に目に入るようにしていたんだとか。

しかし、寛永八年(1631)
嘉明の死後にはお家騒動が勃発、後を継いでいた嫡男「加藤明成」は改易となってしまうのです。
とりあえず家はどうにか保たれ、近江水口藩として存続していくこととなるのです…。
カエル・雪

【 戦国メーター★加藤嘉明 】
 家柄: ■■□□□ 三河・松平家家臣です。武士ですが、そう大したものではないでしょう。
 実力: ■■■■□ 各地の主要合戦に参加するなど、地味ながら戦闘・政治とも安定。
 地理: ■■□□□ 伊予で判断。まぁ、天下とは無縁の方でしょうけれど。
 
[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
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※そんな訳で、実は「加藤嘉明」さまの松山城なのでした。
 なかなかいいお城ですよねぇ。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

七本槍の加藤くん、賤ヶ岳で奮戦 (加藤嘉明)4

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。

天正十一年(1583)
時代の覇者「織田信長」死後の”織田家主導権争い”である「賤ヶ岳合戦」
美濃へ出陣していた「羽柴秀吉」の留守を狙って、柴田勢の先鋒隊「佐久間盛政」「柴田勝政」が戦を有利に進めておりました。
しかし、急報を聞きつけた秀吉ら一万五千の軍勢は約五十ニキロという道のりをわずか五時間で疾駆し、木之本まで戻ってきていたのでした。

なお、歴戦の将「柴田勝家」は前線の盛政に対して、さかんに撤退命令を出しております
さすがに、何かしら察するところがあったのかもしれません。
…ただ、こうして命令に服さなかった盛政を見るかぎり、彼の支配力としてはその程度なのかもしれませんが。

さて、あまりに早かった秀吉本隊の着陣に「佐久間盛政」は驚愕しておりました。
同時に、突出していたことで、敵中に孤立する恐れがあることを悟るのです。
ここで盛政は慌てて撤退を開始。

しかし、それすら見越していた秀吉は、あらかじめ五千の馬廻り隊を先んじて突撃させていたのです。

合戦イメージ

午前二時という深夜の退却は困難を極め、さらに秀吉勢の追撃を受けて大混乱となった佐久間隊は敵味方の区別なく、ただ逃げ惑うという有様でした。
追っ手の秀吉勢は隊を二手に分け、殿となった「柴田勝政」、および「佐久間盛政」ら部隊を包囲・殲滅。

この追撃戦にて活躍したのが、世に言う”七本槍”、「福島正則」、「加藤清正」、「片桐且元」、「脇坂安治」、「平野長泰」、「糟屋助右衛門」、「桜井佐吉」、「石川兵助」、そして今回の主役「加藤嘉明」なのでした。
…あれ、これだと九本槍ですよね。
とりあえず、上のメンバーで桜井・石川の両名は討死しておりますので、それだと七本槍になります。

まぁ、日本人はなにかと「七」という数字が好きですし、喧伝の際にくくりやすいということもあったのでしょう。
また、それ以外に「石田三成」、「大谷吉継」なども手柄を立てており、実は七本槍自体が後世の創作ではないか、とも言われているようです。

とりあえず、ここで「加藤嘉明」は特に功のあったとされる数名に見事選ばれ、”七本槍の一人”として、華々しく芸能界…じゃなくて戦国時代デビューをするのでした。

真相はさておき、この七本槍というのは、譜代の家臣団がいない秀吉が計画した、今後を担う股肱の臣を大々的に宣伝的したという性質が強いようなのです。
カエル・晴れ
⇒ つづく。
  次回は「大名になった加藤くん、松山城を築く」(5/5)

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賤ヶ岳七本槍―秀吉を支えた勇将たちの生涯賤ヶ岳七本槍―秀吉を支えた勇将たちの生涯
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※秀吉と共に大出世をした彼らは、波乱万丈な人生となるのでした。
 良かったのか、悪かったのか…。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

活躍する加藤くん、賤ヶ岳合戦に参加 (加藤嘉明)3

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸(笑)な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。

馬喰(ばくろう)となっていた「加藤嘉明」は岐阜へ赴いた際、織田家の「加藤景泰」と接触。
その推挙によって、織田家でめきめきと頭角を現し始めていた「羽柴秀吉」に仕えることとなったのです。

加藤嘉明.jpg
※ぼんやりですが、こちらが嘉明さまです。わかんないねぇ。

天正七年(1579)
十六歳頃には初陣も済ませ、織田家の司令官にまで出世していた「羽柴秀吉」に従って、中国地方へ出陣しております。

ちなみに余談ですが、「本能寺の変」はその三年後のことです。
だいたいそんな頃なのね。
織田から離反した播磨の名族「別所長治」との戦い、干殺しで有名な三木城攻略戦にて功がありました。
しかし、嘉明の名が世に出るのは、何よりも次の「賤ヶ岳合戦」なのです。

天正十一年(1583)
時代の覇者「織田信長」死後の”織田家主導権争い”というのが、「賤ヶ岳合戦」です。
明確に後継者として動き出した「羽柴秀吉」と、それを阻止しようとする筆頭家老「柴田勝家」の間で起こった戦いですね。

越前・北ノ庄を出陣した「柴田勝家」は”鬼玄蕃”と称される猛将「佐久間盛政」を先鋒として、柳ヶ瀬に陣を構えました。
その頃、「羽柴秀吉」は先に伊勢にて挙兵していた「滝川一益」と対陣しており、不在だったのです。
報に接した秀吉は伊勢に若干の押さえを置き、近江へと進軍。
頼れる弟「羽柴秀長」、名人「堀秀政」など各所へ将を配置して、それと対陣するのでした。

しかし、拮抗した戦力がために膠着状態となってしまうのです。
そんな秀吉勢の背後美濃では、柴田方である信長三男「織田信孝」が活動しており、それを牽制するため、秀吉は陣を離れた岐阜へと移動。
その留守を狙った、柴田勢の先鋒隊「佐久間盛政」「柴田勝政」らはついに軍を動かし、大岩山に布陣していた「中川清秀」隊へ先制攻撃の末、これを壊滅するのでした。
さらに、岩崎城「高山右近」、賤ヶ岳砦「桑山近晴」を攻め、戦況を優位に進めます

この急報を聞きつけた、美濃・大垣城の秀吉は急遽軍を反転。
街道沿いの家々に松明と握り飯を用意させ、一万五千という兵と共に大垣から木之本まで約五十ニキロという道のりをわずか五時間ほどで戻ったのです。
まさに中国大返しを彷彿とさせる、素早い行軍を見せるのでした。
そして、その翌日には全軍に反撃を命じるのです!!

いやー、この素早さは得意の城攻めと共に、秀吉の真骨頂というべきものでしょう。
当時の秀吉は、信長配下時代に培った知恵と元来の派手さ・大胆さを遺憾なく発揮し、まさに時流に乗っていたのだろうと思うのです。
カエル・驚き
⇒ つづく。
  次回は「七本槍の加藤くん、賤ヶ岳で奮戦」(4/5)

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※このあたりの秀吉さんはまさに神がかっていた、ように感じます。
 ……まぁ、会ったことはないのですが(笑)

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馬喰の加藤くん、推挙される (加藤嘉明)2

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本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。

父「加藤教明(かとう・のりあき)」は三河・松平氏の家臣。
しかし、「三河一向一揆」にて、うっかり一揆勢に属してしまった教明は浪人し、近江へ辿り着くのでした。
子の嘉明は馬喰(ばくろう)に養われますが、その際に馬術ほかに馬に関する知識を吸収していったのです。

さて、岐阜(美濃)へと馬を売りに行った若き「加藤嘉明」はそこで「織田信長」に仕える「加藤景泰(かとう・かげやす)」と接触しました。
まぁ、当時馬を必要としているのは武士か豊かな農民あたりでしょうから、岐阜へ赴いた彼が織田方の誰かしらと会うのは当然なのかもしれません。
時期的にも、斎藤氏を倒して勢いのあった織田家です。
あるいは、いい商売相手になるかもしれない、と考えたのかもしれませんね。

なお、先の「加藤景泰」は同じ加藤姓ですが、嘉明とはまったく関係はありません。
ちなみに、清正とも無関係です。
美濃国・多芸群の小領主。
斎藤氏から、織田・羽柴(豊臣)氏に仕えた方で、後に甲府二十四万石を得る「加藤光泰(かとう・みつやす)」の父なのです。

さて、嘉明の連れる馬を見た景泰は、
駿馬だが、癖が強い
と難色を示したところ、
自分なら乗りこなしてみせる
と言い、見事嘉明はその通りにしてみせたのです。
それに感服した景泰は才を惜しみ、「羽柴秀吉」へ推挙した…とされております。

豊臣秀吉

これがどこまで真実かはさておき、いつの時代でも一芸に秀でているというのは、後の人生を大きく左右しますね。
芸は身を助ける
というのは本当なのですよ、そこのお母さま。
勉強だけが人生ではないのですよ!
こうして、後の太閤「木下藤吉郎(羽柴秀吉)」に見出された「加藤嘉明」は、その小姓として仕えることとなったのです。

そんな嘉明さまの人柄を知るエピソードを一つ。
しつけに大変厳しい武将で、家中のものには”帯を前脇で結ぶよう厳命していた”そうなのです。
その理由を問われると、
帯を後ろで結んでいると、緊急時に遅れを取る。前脇であれば走りながらも結べ、また解けても結びなおしが容易い
常に危機意識を持ち、事に対処できるよう気を配っていたんですね。
ヒヨコ・照れる
⇒ つづく。
  次回は「活躍する加藤くん、賤ヶ岳合戦に参加」(3/5)

[関連記事] 【豊臣政権セット】
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⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
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GOLDEN☆BEST/加藤登紀子GOLDEN☆BEST/加藤登紀子
(2002/06/19)
加藤登紀子

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※加藤…ということで……「加藤登紀子」さん。
 歴史人物以外の有名人で最初に頭に浮かぶのはこの方ですかね。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

知ってる?七本槍の加藤くんは二人いる (加藤嘉明)1

のんびり気軽にさんぽがてら。
”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」ですよね。普通は。
しかし、実はもう一人加藤くんがいるというのは、一般の方はあまり知らないでしょう。
戦国時代に詳しい方なら間違いなくご存知であろう、本日は「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまなのでした。

この方、たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、また同じ加藤姓では人気の高い「加藤清正」さまが近くにおられるので、どうしても一歩地味なイメージなのですね。たぶん。
ドラマなどでも端役の方がやるか、あるいは役自体がなかったりします(笑)
ああ、気の毒。
そんな訳で、”賤ヶ岳の七本槍”のひとり「加藤嘉明」さまです。

その父「加藤教明(かとう・のりあき:あるいは岸三之丞、広明、景喜)」はもともと三河の武士で、天下人「徳川家康」の父「松平広忠」の家臣でした。

しかし、永禄六年(1563)
「徳川家康」最初の試練である「三河一向一揆」との戦いにて、主家・信仰のうち、信仰をとってしまった教明は一向一揆側に属し、主と対立してしまうのです。
結果的に若い家康はこの苦境に見事勝利。
それがため、教明は浪人の身となってしまうのでした。

徳川家康.jpg

…余談ですが、この「三河一向一揆」は鉄壁の忠誠心をもって知られる徳川家臣団が真っ二つに分かれた合戦です。
信仰も無論大事ですが、今まで今川氏のもとで不遇をかこっていた三河武士らにとって、独立した家康は希望の星なのでした。
そんな訳で、忠誠心に厚い彼らは面白いことに、戦場へ家康が出てくると「若君」ということで直接対決を避けたそうなのです。
(※この一向一揆勢は松平家臣団のほか、今川旧臣や吉良氏なども参加していたため、そんなんでも危機には違いなかったのです。当主としての力量を示す、国内統一戦というべき風情だったみたいなのよ)
ちなみに、後の参謀「本多正信」もこの戦では一向一揆側に参加していたりします。

さて、今回の主役「加藤嘉明」はこうした年に誕生しました。
幼名は「孫六」、後に「左馬助(さまのすけ)」
浪人した父教明は後に秀吉が居を構える近江・長浜へ辿り着いたらしく、子の嘉明も十二歳頃まではそちらで馬喰(ばくろう)に養われておりました。
この「馬喰」というのは、牛馬の売買ほか、その病気を治したりしていた職業のようなのです。
…要するに、馬に関してのプロフェッショナルでして、その手伝いをしていた嘉明はここで馬術のほか、関連知識を得たのでした。
カエル・(笑)
⇒ つづく。
  次回は「馬喰の加藤くん、推挙される」(2/5)

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※加藤…ということで……「加藤ローサ」さん。
 ひでるさん、カレンダーは一度も買ったことないですねー。
  

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韋駄天 (天部・仏像)

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…誰もが一度くらいは聞いたことあるのではないでしょうか。

どうよ?
いまどきそんな言葉知ってるのはおっちゃんだけですか??
…という「韋駄天(いだてん)」をお送りいたします。
ややしつこかったですね。

ほらほら、足が速いことを「韋駄天走り」って言うでしょ?
最近はあんまり耳にしないかもしれませんが(笑)
その”韋駄天”ってーのが、こちらの方なのでした。

仏涅槃(ぶつねはん:釈迦が入滅すること)の時、仏牙(ぶつげ)を盗んで逃げた捷疾鬼(しょうしつき)をその足にかませて追いかけ、取り返したという伝説。
また、比丘が魔障に惑わされそうになった際、速やかに近づいてそれを除くとされております。
…「韋駄天走り」という言葉、”足が速い”というイメージはこうした伝説からの由来であるのです。

韋駄天.jpg

梵名は「スカンダ」、あるいは「カルッティーケーヤ」です。
これで、跳ぶ者(跳躍ね)という意味。

それを音写したものが、塞建駄(そくけんだ)、建駄、私建陀(しけんだ)とされているのでした。
…ここで勘の良い方は気付いたかもしれませんね。ひでるは気付かなかったですが。

そう、「韋駄天」の「」という漢字はこちらの「」という文字の写し誤りとされているのですよ。

誰だか知りませんが、一人のうっかりさんがため、現在までミスが広がったまま収拾つかないという、悲惨なケースとなっています
もう取り返しがつきません(笑)
ああ、お気の毒。

インドのバラモン教ではシヴァ神の子供でした。
それが仏教に取り入れられてから、四天王での南方「増長天」配下の八将の一人、その首領格とされました。
こう見えて(←どう?)、結構偉い方なのですよ。

四天王と共に仏法を守護し、大衆を救済する役目。
寺院では単独で伽藍(がらん)の守護神となっているものが多く、特に禅宗寺院では庫裏(くり:社務所みたいな、僧侶が住む場所)にて守護神とされていることが多いのです。

やたら特徴的なので、簡単に見分けつくのも特徴。
甲冑・鎧姿での立像で、手は合掌印を結ぶ。
両手で宝棒、あるいは宝剣を横にしたまま、捧げ持つ姿。
(※写真参照)
この姿は日本が鎌倉時代であった頃に中国から伝えられたものだそうです。
ただし、そのように書かれた経典などはないらしく、中国・道教で信仰されていた神将姿が影響した様子なのでした。

あちこちお寺をくるくる回れば、意外と目にする機会があるでしょう。
京都・泉涌寺(せんにゅうじ)には中国製と言われる木彫像・重文「韋駄天像」があることで有名。
あまり巨大ではありませんが、非常に勇ましく格好いいものです。
こちらは「楊貴妃観音」と共に100年に一度公開される秘仏でしたが、現在は一般公開されているので、必見です。

最後に真言をば。
「おん、けんだや、そわか」
…を唱えれば、盗難されなくなるそうです。
カエル・晴れ
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※なんとなく速い、というイメージだけで「バルタン星人」です。
 ひでるライターとは無縁ですが、けっこう欲しいですね。

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義仲寺 (滋賀)

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀は大津の「義仲寺」です。

きました、源氏ファン憧れの「義仲寺」
ひでるさんはずっと「よしなかでら」と読んでいましたが、正確には「ぎちゅうじ」だそうです。
毎度のことですが、むやみやたら人に喋らなくて良かったですね(笑)

さて、歴史にまっったく興味ない方でもおそらく名前は知っている(たぶん)だろう、「木曾義仲(きそ・よしなか)」さま。
いわゆる判官びいきというのも手伝って、現代では「源義経」の名前のが知られていますが、実際に平家の大軍に真っ向から立ち向かい、撃退・勝利したのはこの「木曾義仲」さま率いる軍勢なのでした。

一時期は「征夷大将軍」に任命され、「旭将軍」と呼ばれた清和源氏の「木曾義仲」さま。
しかし、後に色々あって衰退。
「源頼朝」勢に追われた「木曾義仲」は「宇治川の戦い」に敗北。
粟津原(あわづはら)と言われたこの地で、壮絶な討死をするのでした。

義仲寺.jpg

さて、その後粟津原に一人の尼層が訪れ、「木曾義仲」ほか戦死者を供養したのだそうです。
…この尼こそ、「木曾義仲」と共に戦地に立った愛妾「巴御前」だったのでした。
ああ、ラブラブですね〜ハート青
いい話です。
と、これが「巴寺」、あるいは「巴御前」が自分のを名乗らなかったことから「無名庵」などと呼ばれる由来なのだそうです。
そこから察するに、庵みたいなものは昔からあったようですね。

そんな「木曾義仲」さまを葬った塚、庵のあった場所に、近江を支配していた六角氏が修復拡大し、「義仲寺」を建立したと伝えられています。
室町時代末期といいますから、戦国時代初期頃なのかな。
六角氏、グッジョブです。

なお、その頃の境内は今と違ってかなり広大だったみたいなのです。
「義仲」とこの周辺の景色を愛した「松尾芭蕉」はこちらに度々訪れ滞在すること多く、大坂にて亡くなった後は生前の遺言によってこちらに墓が建てられたのでした。
木曾殿と背中合わせの寒さかな
…という有名な句ですが、これ「松尾芭蕉」のものでなく、門人「又玄(ゆうげん)」のものなんだって。
へー。

現在の境内には、「木曾義仲」の墓、「巴塚」、「義仲」の妻と妾とも言われる「山吹御前」の供養塚(※義仲戦死の報を聞き、自害したそうです。モテモテですねー)、そして「松尾芭蕉」の墓などがごっちゃりとありました。
お寺好き、というよりも歴史ファン向けなお寺ですね。

なお、結構な歴史施設・お寺であるというのに、駐車場もない・ごくごくこぢんまりとした小さなお寺です。
一応、お寺の前にぎりぎり一台駐車ができますが、前の道もやたら狭いので大変でした。
はっきり言って、歩いてった方がいいかもしれません。
JR膳所駅、京阪電鉄膳所駅が近いようです。
ヒヨコ・ぱちくり

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[住所]
 義仲寺 滋賀県大津市馬場1-5-12

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※そんな訳で、本日は「木曾義仲」さま。
  昔木曾にも行ったことありますが、ものすごい山中でしたよー。自然児で当然。

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伊賀流忍術の雄 「百地丹波」 

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国忍者シリーズ第二回、ちょっとマニアックな人なら知っているかもしれないこの方、「百地丹波(ももち・たんば)」さまです。
このシリーズは収集できる情報がやたら少なく、怪しさ満載なのでご注意を。
やめようかとも思ったんですが…出来る限りでやろうかと。

「百地三太夫(ももち・さんだゆう)」という名前もよく聞かれますが、これは別名?あるいは一族の別人かな?
とりあえず、官位「丹波守」を名乗った百地さんがいつだか当主でいたことは確かなようです。
伊賀の国人、あるいは土豪とかだったのかな。

出現!.jpg
※まったく関係ないですが。イメージ映像です。

「百地丹波」は名前そのまま、百地丹波城(上野市)を居城としておりました。
伊賀国という土地柄もあって、まるで”忍者の首領”であったかのように扱われておりますが、その実態ははっきりせず不明。
とりあえず、漫画映画にあるような、多くの忍者を召し抱えていた頭領ってイメージは違うのでしょう。

天文年間(1532〜1555)には、伊賀付近一帯を制圧。
小土豪となっていたようです。
ここは、室町時代の旧支配体制がほぼ崩壊し、新たな戦国時代の扉が開こうとしている頃です。

日本の最南端では鉄砲が伝来し、甲斐では「武田晴信」が父「信虎」を追放して当主となり、越後では「長尾景虎」が兄「晴景」に代わって当主となっております。
おそらくは群雄割拠の日本、伊賀国にて頭をもたげた、有力国人一人だったのでしょう。

続く天正年間(1573−1592)にも、一族の名が記録に散見しております。
その天正七年(1579)
「織田信長」の次男、伊勢北畠氏を相続した「織田信雄」が伊賀へ攻め込んでおります。
この際には土地勘に優れていたことに加え、おバカで有名な総大将「織田信雄」の指揮の拙さもあり、織田勢を大敗させました。

なお、その軍事行動は父「信長」に無断のことであり、むやみに兵を失っただけの「信雄」は激しい叱責を受けたと伝えられています。
しかし、続く天正九年(1581)には付近の諸大名・数万と言われる軍勢に再度攻められ、ここで討死。
百地家は滅亡してしまうのでした。

一説には忍者に脅威を感じた「織田信長」が徹底弾圧を行ったとか、伊賀忍者らを統括する司令官であったなど、興味深い話もありますが…うふふ。

なお、織田の重臣「滝川一益」は出自が不確かで、「九鬼嘉隆」を推挙するなど伊勢の出身であるという説のほか、伊賀・甲賀の出身と言われ、それがため”忍者であった”とか言われています。
要するに、そういう期待を持ちたくなる、土地柄な土豪だっただけのことなのかな。
カエル・おやすみ

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※ニンニン、とか変な語尾もなかったでしょう。当たり前ですね。
 わかんないけれど、もう少し職人っぽい集団だったと思うのです。

城郭コレクション「日本の名城」第三章 (関連商品)

のんびり気軽にさんぽがてら。
以前第一章を紹介しましたが…ふと見つけてしまいました。
でも、第ニ章でなく第三章なんですが。
こちら。

日本の名城2.jpg

うわうわ、だからこんなん目の前に持ってきてはダメだってばー。
適度な大きさでケース付き。
出来栄えなかなかで、城だけでなく周囲の風景まで再現されたソレはなんというか箱庭っぽい風情
こぢんまりと、飾っておくになかなか良かったので、今回も買ってみたんです。
それに、戦国ファンの憧れ「安土城」があるんだものぅ。
こりゃ、買わなければ。
ねぇ。

…と、そんな、誰もが気になる(かもしれない)第三章のラインアップは……

日本の名城3.jpg

・安土城(夏)
・安土城(秋) …言わずと知れた「織田信長」が居城。実際も豪華絢爛だったそうですよ。
・松本城(秋)
・松本城(冬) …堀が素敵な長野県のお城。「石川数正」が築いたんだって。別名、烏城(からすじょう)
・彦根城(夏) …400年祭もやっている井伊家の居城。
・和歌山城(夏) …紀州徳川が居城。秀吉の弟「豊臣秀長」が築城したんだそうな。

★彦根城(春) …今回のスペシャルです。キャラクター”ひこにゃん”がついてます。

ひこにゃんつき.jpg


…そんなんです。
こちらで、ひでるさんの狙いはたった一つ「安土城」
特に夏でも秋でもいいんですが、色的にはやっぱり「夏」かなー。
そう、やっぱり今回もある季節違いは、前の木とかの色がやや異なるだけだったものに比べてなかなか良い雰囲気。
あるいは松本城(冬)の雪景色もなかなかいいねぇ……とかなんとか、購入前に思いを巡らせておりました。

ただ、前に”季節ダブリ”なんて失敗をしているんですね。
(※前回記事参照
そんな訳で色々迷った結果、いつもの”強欲を必死に抑え”て一つだけ購入することとしました(笑)
だって、和歌山城とか、彦根城とか、徳川の城なんていらんもの。
その結果は…

彦根城(夏)

日本の名城1.jpg


おー、まい、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)さま!!

なんでまた「彦根城(夏)」かなー。
せめてシークレットならまだいいんですが…あうあう。
あるいは、まぁだ「和歌山城」ならば良かったんですが…。
うぬぬぬぬ…何が好きで徳川方の城なんて…くそう。

過去に「佐和山城」を紹介した時にも書きましたが、近江へ出向いたひでるさんは400年祭で盛り上がるそちらを無視して「佐和山城址」を目指したほどなんですよ。
あるいは、これその際の呪いかなんかか??

ああ、「安土城」欲しいんですけどねー…なんだか絶対に違うの出てきそうだし……。
(※ちなみに、ひでるさんは小さい頃よりガチャガチャとか大好きでしたが、運に見放されてるのか、狙ったのがでないのです)
また買うかどうかは、微妙。
第四章か…あるいは、すっとばした第ニ章を探してみましょうか。
ヒヨコ・曇り

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※やっぱり「安土城」ですよ。
 かっこええにゃー。
 近江、じゃないや滋賀にて天守閣だけ再現されたのを見ましたが、良かったですよぅ。

常寂光寺 (京都・右京区)

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は右京区の「常寂光寺(じょうじゃっこうじ)」です。
…読み方合ってるよね?ね?

久々に行ってきました、京都。
いやー、やっぱりいいトコロです。またいつか住みたいですね。
今年の真夏の炎天下なら、がらがらかなーって思いましたが、やっぱりお客さんはおりました。
(↑当たり前か)

今回は三千院方面へ出向きましたんで、また機会あったら順次紹介していきたいと思います。
そんなこんなで、右京区は「常寂光寺」ですね。

常寂光寺_多宝塔.jpg
※重文「多宝塔」

開山は「日禎上人(にっしん・しょうにん)」です。
その「日禎上人」は大納言「広橋国光」の子として、永禄四年(1561)に誕生しました。
(※広橋家[ひろはしけ]:文官の家柄である名家、公家。藤原北家日野流。十三名家の一つ)
近い事件としては、「桶狭間合戦」が永禄三年(1560)なんで、新しい戦国の風が吹いた頃のことです。
ちなみに、日野家ニ十八代当主に「日野輝資(ひの・てるすけ)」という方がおりますが、持てる資料で調べた結果別人みたいでした。
兄弟なのかな?

ともかく、「日禎上人」は幼い頃に日蓮宗の大本山「本圀寺」に入れられ、なんとわずか十八歳にして法灯を継いでいるのです。

「法灯を継ぐ」ってーのは、後継者みたいな意味ですから、”宗学と歌道への造詣深く”という一文はあながち誇張とか冗談ではなさそう。
それだけでなく、若き秀才は人気面でも人並み外れており、虎退治で有名な「加藤清正」、関ヶ原で歴史的寝返りをした「小早川秀秋」、秀吉の実姉「日秀」などの戦国武将から京都町衆に至るまで多くの帰依者がいたのです。
しかし、天下人「豊臣秀吉」の出仕に応じなかったことから「本圀寺」を離れ、隠棲することとしたのでした。

この時の「日禎上人」は不受不施(ふじゅ・ふせ)という、「信者以外からの施しは受けず,また他宗の者には施しをしない」というある意味理にかなった、ある意味頑固な教えを守ったためであるようです。
日蓮宗にはこちらを教義とした宗派もあり、江戸幕府から邪宗として弾圧されています。

ともかく、隠棲することとした時代の秀才「日禎上人」の選んだ土地が、もとは百人一首の選者として名高い「藤原定家」の山荘「時雨亭」付近であるらしい、小倉山の中腹であるこちらなのでした。
(注:現在残っている「時雨亭」はこの付近にあったんだよーっ、て建てられたもので当時のものではありません)
京都の豪商「角倉了以(すみのくら・りょうい)」、角倉家宗家「角倉栄可(すみのくら・えいか)」らが土地を寄進し、「小早川秀秋」ら各武将たちが建立に寄与したのです。
隠棲の庵は後に寺へと改められ「常寂光寺」となるのでした。

看板の文句をそのまま借りると、幽雅閑寂(ゆうが・かんじゃく)で、日蓮宗の教義にある「常寂光土(じょうじゃっこうど)」の観があるところから、「常寂光寺」という寺名がつけられたのです。

四字熟語連発でなんだか分かりづらいですね。
えーっと、静かで趣が深く上品な雰囲気で、仏の悟りである真理そのものが具現しているような、最高の世界っぽいんだよーということみたいです。
物凄いベタ褒めですよ。

こちらの仁王門はちゃっかり元居た「本圀寺」から移築された、南北朝時代もの。
(※解体修理はされていますが、基本的には同時代)
安置されている仁王像は運慶作で「長源寺」より移されたもの。
さらに本堂は桃山城・客殿からの一部を移築・修造したもの。
色々なところから拝借してます。
元和六年(1620)だから…江戸時代建立の多宝塔はオリジナルで重文。
当時の京都町衆の財力をしのばせるほど秀麗なものなんだって。

また、京都屈指の紅葉の名所として知られ、山の斜面と合った景色が大変に良いそうですが…ひでるさん行ったのはやっぱり真夏で空いている時期なのでした。
ひでるさんが行った時はものすごーく色気ない、地味パンフレットでしたが、こちら変わったでしょうか?
もしそのままなら、少し頑張った方が良いと思われますが。
ヒヨコ・曇り

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[住所]
 常寂光寺 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3


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※そんなこんなで写真集も出ている「常寂光寺」です。
 お寺の四季風景というのは、なにゆえこんなにいいもんなんでしょうか?

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般若菩薩 (仏像・菩薩)

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本日は…どっかで像を見たらぜひ教えて欲しい、単語はよく聞くけれど実際にほとんど見られない、「般若菩薩(はんにゃ・ぼさつ)」についてです。

日本で「般若経典」での本尊。
知恵を象徴する存在・菩薩なんですが……そうですね、ひでる所持の本では書かれていないものがほとんどでした。
いったい、どんな方なんでしょう?

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※この絵が「般若菩薩」です。

般若菩薩、別名「般若波羅蜜多菩薩(はんにゃはらみた・ぼさつ)」で梵名は「プラジュニャーパーラミター」…うわうわ、練習しないと言えません(笑)
もっとも初期に成立した、「大乗経典」を偶像化したものだそうです。
もともと、もやもやっとしたガスみたいな存在なんですよ。(←失礼)
その「大乗経典」ってーのは、ごく簡単に”あらゆる物事は「空」なんだよ””自分が成仏するためには他の全ての生き物たちを救いたいという心が大切なんだよ”、っていう教え。

「般若仏母(はんにゅ・ぶつも)」とも称されます。
般若(はんにゃ)ってーのは、仏教での修行によって得られた悟りの智慧(ちえ)を示します。仏教の真理そのまま、正しく物事を認識して判断する能力、みたいなもの、ですか。
ぱっと思いつくであろう「嫉妬した女の顔」という、同名の能面はまったく関係なく、当然ですが「萩原流行」さんともまっったく関係ありません。
(※間接的に由来の元となってはいるようです)

般若.jpg

また、仏母は梵名「プラジュニャーパーラミター」が女性名詞であるためで、諸仏はこの「般若菩薩」の知恵の力によって悟りを開くことができるそうです。
”諸尊の母”とされているのは、そんな理由。

通常は菩薩として描かれ、密教では胎蔵界曼荼羅・持明院の中央尊。
この際は三目六臂でそれぞれ異なる印を結び、一臂は白蓮華を持っています。
六臂は、「六波羅蜜」という、”菩薩が行う六つの実践業”を象徴したものとされています。
虚空蔵院におられる場合は、ニ臂の般若仏母。
ほかに甲冑を身に着けるもの、手に経箱を持つもの、知恵の剣を持つものなど様々。
眷属には大般若経を守護する、四天王を含む十六神「十六善神」を伴い、般若十六善神として表されます。

結構スゴイ方なんですが、日本で信仰はなく、彫刻にも絵画にもあまり登場しないシンボル的な存在みたいなの。
見かけないのは、そんなんが原因なのでしょう。
カエル・おやすみ

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※おまけ:般若心経(はんにゃしんぎょう)
宗派によって呼び方は様々。
大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つで、僅か三百字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれている…そうなのです。

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テーマ:仏教 - ジャンル:学問・文化・芸術

愛憎劇は悲劇の結末 (戦国メロドラマ劇場〜岩村城)5

のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、特別企画「戦国メロドラマ劇場」のラストをお送りいたします。
当時を知ることのできる、大変に興味深いエピソードの一つ。
戦国時代で起こった、まるで昼ドラのような愛憎劇、その結末をお楽しみ下さいませませ。

元亀元年(1570)
西上作戦の武田勢。
それと同時に、信濃・高遠城城主「秋山信友」は伊那口から東美濃へと進出。
美濃国(恵那郡)岩村城を無血開城させ、和議の条件として結婚を申し入れられた「遠山夫人」はそれに快諾。
なんと、つい先日まで敵方として戦っていた相手と夫婦になってしまうのでした。

上村合戦※あるいはこの戦いで「遠山景任」は怪我をした、戦死したという説もあるようです)では、結集した”三遠山”の「遠山景行」らを破り、逃れた景行は岩井戸砦へ退いてこれをよく守っておりりましたが、後に力尽きて自刃。
こうして、東美濃はほぼ武田方の支配下となってしまうのでした。

岩村城から岐阜城まではわずか十五里程度。
まさに喉元へ刃を突き付けられたような状況で、「織田信長」は何度かその奪還を試みたようでしたが、四方を敵に囲まれた状況で派兵もままならず、またよく守った「秋山信友」は織田勢を寄せつけなかったのです。

西上を開始した「武田晴信」
元亀三年(1572)に信長の盟友「徳川家康」を「三方ヶ原合戦」で破った武田勢の進軍速度はなぜか鈍り、翌四年には不可解な撤退を始めるのでした。

そう、にわかに発病した晴信はそのまま病死していたのです。

この急な事態によって、将軍「足利義昭」の包囲網は瓦解。
武田勢の撤退から余裕の出た「織田信長」は散らばっていた勢力を各個撃破し、桶狭間以来の危機を脱したのでした。
英雄には運がつきますが、この信長という人も桶狭間の豪雨、「武田晴信」の病死、「上杉謙信」の病死など、なにかと強運の持ち主なのです。

続く天正三年(1575)には三河・長篠城を武田勢が攻撃したことから「長篠合戦」となり、当主晴信に代わっていた「武田勝頼」は織田・徳川の連合軍によって大敗を喫するのです。

遠山夫人.jpg

これにより、東美濃での情勢は逆転
ついに三万の兵と共に進出した「織田信長」、そして頼れる嫡男「織田信忠」はよく支えていた岩村城に対して兵糧攻めをとり、五ヵ月に渡る攻略戦の末に和議を持ちかけるのです。

「叔母の城なので兵火にさらすのはしのびない。和睦としようではないか…」

長期戦で守備隊も限界が近く、また現在の武田勢では援軍もままなら